いつまで経(た)っても戻(もど)らない谷底(たにそこ)に、山上(やまがみ)はイラついていた。これなら、自分で行った方がよかったな…という気持も湧いてきていた。腕を見れば、すでに午後2時を回っていた。山上は、いい加減にしろっ! と、誰もいない野原に腰を下ろし、怒鳴(どな)っていた。
コトの発端(ほったん)は、予想外のハイキングコースにあった。予定したルートの地図上では、この付近に食べられる店が出ているはずだった。それが、無かったのだ。いや、あることはあったのだが、すでに閉じられていて、廃墟(はいきょ)と化した店だった。二人は、空いた腹を抱え、どうしたものか…と思案した。
「俺が近くの家で訊(き)いてくるよ…」
谷底がそう言って消えたのが2時間ばかり前だった。「ああ…」とは言ったものの、山上とすれば、すぐ戻ってくるだろう…の軽い気分だったのだ。それが2時間である。他人まかせにした自分がいけなかった…と後悔(こうかい)しながら、山上はついに動くことにした。他人まかせにしなければ、行動はすべて自分がやっているのだから腹が立たない。失敗は自分の失態だから、他人に腹を立てることもなくなるのだ。動きだした山上は、急がば回れか…と、古くからある格言を思い出した。
歩きだして15分ばかりが経ったとき、山上の眼前に一軒の食事が出来そうな店が現れた。山上は躊躇(ちゅうちょ)することなく店へ飛び込んだ。
「いらっしゃいっ!」
店奥から気分のいい声がかかった。山上は店内を見回して適当に座ろうとした。と、そのとき、ウデェ~~っとした赤ら顔で鼾(いびき)を掻きながら畳席で眠っている一人の男を山上の目が捉(とら)えた。男は、待てど暮らせど戻ってこなかった谷底だった。谷底が横たわる机の上には食べ終えた料理と酒やお銚子が並んでいた。こいつっ!! と山上は腹を立てたが、時が経つに従い、そんな自分が情けなくなってきた。
「こいつと同じものをっ!!」
山上は店主にオーダーしていた。
「へいっ!」
一時間後、山上は谷底の隣りで大の字になり赤ら顔で眠っていた。何ごとも他人まかせにせず自分でやることが、好結果を得る早道(はやみち)となる。
完
最高裁判所の法廷である。再審請求が認められた湯煙慕情騒音殺人事件の判決が言い渡されようとしていた。多数意見は、明らかに被告人、音痴(おんち)の唄った騒音により、隣り部屋に宿をとっていた観光客である被害者が狂死したとの死亡説を採った。それに対し、少数意見は単なる死亡説を採ったが、その裁判官の数は裁判長だけの僅(わず)かに1名だった。ところが、である。まさに判決が言い渡されようとしたそのとき、被告人である音痴が突然、唄い始めたのである。その唄は、まさに被害者が死亡したそのとき、唄われていた唄だった。
「被告人!! 静粛(せいしゅく)にっ! それ以上、唄うと退廷を命じますよっ!」
これから判決を言い渡そうとしていた裁判長は型(かた)なしで、威厳(いげん)もなにもあったものではない。それもあってか、裁判長の言葉は、少なからず冷静さを欠いていた。まあ、最高裁の法廷で裁判中に唄ったのは、歴史上、あとにも先にも、この男、音痴の他にはいないと思われた。
「分かりました…。でも、裁判長! この唄で誰も死んでないでしょ!?」
音痴の言うのは道理に叶(かな)っていた。廷内では誰も死んでいなかったのである。
「… まあそうですが…。オッホン!! 静粛にっ! 被告人はこれから判決を申し渡しますから、静かに聞くように…」
廷内は沈黙し、静まり返った。
「主文 被告人は無罪」
多数意見が、ものの見事に覆(くつがえ)った瞬間だった。多数意見を述べた裁判官達は、『嘘(うそ)だろっ!』とでも言いたげな眼差(まなざ)しで裁判長を見た。
「判決理由 被告人の唄った行為により死亡者が死亡したと推論した状況証拠の根拠は、法廷内において被告人が成した歌唱行為により崩れたものと見るべきである。すなわち、法廷内に死亡者が出なかったという厳然たる事実は、この段階で被害者は単なる死亡者なのであって、被害者ではなくなることを意味することになる。いかに被告人の唄が常識では到底あり得ない音程のずれた聴くに耐えない唄であったとしても、この行為により罪を犯したとは言えない。被告人と死亡者が偶然、知り合いとなっていた事実は認められるものの、心証に作為があったとは言えず、被告人の唄うことによる殺意がある行為、すなわち犯行とする検察側の主張は退(しりぞ)けられることとなる。科捜研の音声解析により、被告人の音声に人類には存在し得ない異質の音域が検出された鑑定結果の事実があったとしても、この法廷内において、廷内の全員が聴いた被告人の唄により死亡した事実が認められない以上、被告人を…」
うだうだ…と裁判長の判決文の朗読は続いた。
この世には少数意見が多数意見より正しいことが、あるにはあるのだ。
完
物事は、すべて適度が無難(ぶなん)だ。熱すぎても温(ぬる)すぎても風呂に気持よく入れないのに似ている。つまりは、ほどほど、小難しく言えば中庸(ちゅうよう)をもって良しとす・・ということだ。そうはいっても、人生に塗(まみ)れていると、世間の柵(しがらみ)によって、どうしても片寄らざるを得ない機会が多くなる。ここで個人の力量が見え隠れする訳だ。適度の使い方を会得している免許皆伝者は姿や結果を残さず霞(かすみ)のように消えるのだ。実際は存在しているのだが、無関係な霞に巻かれ、透明人間化できる訳だ。この男、俵木(たわらぎ)もそういう男だった。管理者か? と訊(たず)ねられればそうでもなく、かといって、平(ひら)の職員か? と訊(き)かれてもそうではない課長代理という曖昧(あいまい)なポストに甘んじていた。甘んじているとは、取り分け、出世しようとも思わない男・・ということに他ならない。
「俵木さん、そろそろどうですか?」
課長の米坂(まいさか)が意味深(いみしん)に笑みを浮かべ、課長席の前に座る俵木に訊ねた。課長、副課長、課長補佐、課長代理の席は、他の職員達の席より窓側の最前列にレイアウトされていた。
「…そろそろとは?」
俵木は意味が分からず、逆に訊き返した。
「ははは…いやですな。あと数年で定年ですから…」
「私ですか? はあ、まあ…」
「ですから、そろそろ…」
「…そろそろ、なんでしょう?」
「いや、実は課長補佐の川平さんが本社の副課長にご栄転でしてね。で、席が空きましてね…」
米坂は歯に物が挟まったような口調(くちょう)で言った。
「ああ、その話は私も川平さんから聞いて知っております」
「ああ、そうですか。…ですからね!」
「ですから? なんですか?」
俵木にダ洒落(じゃれ)を言う気は毛頭なかったが、そう返していた。
「いや、どうということもないんですがね。そろそろ管理職になられるお気持は?」
「ははは…そういうことでしたか。私はもういいんですよ」
「そうですか?」
「はい。今の立場が、私には一番、適度なんです」
俵木は、いい湯加減の血色いい顔で笑った。今さら管理職で同僚を見下ろす・・というのが、適度な職場環境での退職を乞(こ)い願う俵木には耐えられなかったのである。
適度とは気楽とまでは言えない人々のユートピアなのだ。
完
機械馬鹿になるということがある。便利で短時間で済むはずの機械操作に手間取り、結局、時間ばかりを取られ、作業も進まなかった者のことを意味する。起き出した薄毛(うすげ)は、朝早くからノートパソコンを起動していた。だが、なかなか立ち上がらず、ようやく立ち上がるまで数分が経過していた。以前はすぐ立ち上がったのだから、薄毛としては不満だった。お蔭(かげ)で朝食はトーストも食べられなくなってしまったではないかっ! と薄毛は憤懣(ふんまん)やる方なく、イラついていた。さらに輪をかけて、立ち上がったパソコンの常駐・セキュリティソフトの動作が緩慢+指示が多いという厄介(やっかい)さも絡(から)み、すっかり手間取ってしまったのである。そこへ加えて、この重さを改善しようと検索し始めたのが災いし、予定の文章入力は昼まで何も進まなかった。要は、中山道で難儀(なんぎ)し、関ヶ原の戦いに間に合わなかった徳川秀忠公のようになってしまったのである。そして薄毛は、いつの間にかパソコンを目の前にして眠ってしまっていた。
気づくと薄毛は、まだ起き出していなかった。起きた記憶は残っていて、しかもパソコンの延捗(えんちょく)で難儀した記憶も鮮明だったから、寝室にいる自分が理解できなかった。意味が分からないまま取り敢(あ)えずまた起き出した薄毛は機械馬鹿になる危険を感じ、トーストとサラダ、ハムエッグをゆっくりと美味(うま)そうに食べ、外の修理作業を先にやることにした。徳川家康公のように東海道を進んだのである。修理を順調に終えたあと、薄毛はパソコンを手にしようとしたが、まあ、空いた時間でもいいか…と軽く考えたのが功を奏(そう)し、結局、機械馬鹿になることを避けることが出来たのである。めでたし、めでたし…。
完
あれは葉桜だな…と呟(つぶや)きながら通り過ぎていく若い女を評価する男がいた。取り分けて変質者でも何でもない、一見(いっけん)どこにでもいそうなただの男だったが、実はただの男ではなかった。この男、橘(たちばな)は、すべてを透視できたのである。外見だけでなく、素性(すじょう)や性格、さらには過去や未来の過程を透視できる才に恵まれていたのだ。この女は塗りたくって厚化粧で美人に見せてはいるが、その実、すでに散り染めた中年女・・と、橘には見えた。さらに、その女性が辿(たど)った薄幸(はっこう)の人生までも走馬灯を見るように一見(いっけん)して分かったから、その女が通り過ぎたあと、橘は思わず涙ぐんでいた。そんな橘を対向して近づく通行人が怪訝(けげん)な目つきで見ながら過ぎていった。
満開の桜が咲き乱れる春四月、陽気はすでに暑いくらいで、ソフトクリームを舐(な)めながら通り過ぎる花見連れもいた。そんな中、幸せそうなカップルが通り過ぎた。瞬間、橘にはそのカップルが一ヶ月後に喧嘩(けんか)別れすることが分かったから、哀れさで思わず振り返っていた。そして、運命のときが、橘に迫っていた。昨日(きのう)店で食べた桜餅の福引券が当たっていたのである。甘いもの好きの橘にとって、それはそれは有難い当たり券で、当たれば桜餅が食べ放題という至福の券だった。店が近づくにつれ、橘の顔はニヤけてきた。
完
自分の見方と他人の見方は当然、異(こと)なる。その違いは見解の相違として、時には対立することにもなる。個人的な言い争いから国家間の戦争に至るまで、範囲は大きい。まあまあ…と仲裁(ちゅうさい)が入ることにより、二つの違いはお互いに歩み寄ることになる。要は違いが消える訳だ。
昼下がりの、とある八百屋の店頭である。店の主人と一人の買物客の男が話しあっている。店頭には出回り始めた苺(いちご)パックが、ところ狭(せま)しと並べられていた。
「いや、それは、いくらなんでも…」
「いいじゃないですか、もう1(ワン)パックくらい。いつも買いに来てるんだから…」
八百屋の主人が、いつも来る買物客へのサービスで、「お世話になってますから…」と、笑顔で1パックおまけしたのが、いけなかった。買物客は、このサービスを厚かましく利用したのである。店の主人は瞬間、しまった! と悔(く)やんだが、時すでに遅(おそ)し・・だった。
「ははは…私どもは日銭(ひぜに)の商(あきな)いでございましてな…」
「いやいや、ご冗談をっ! 店も手広くされたんですから、結構もうけてらっしゃるんでしょ?」
「いやいやいや…滅相(めっそう)もないっ!」
「これだけパックが並んでるんですから、1パックぐらいっ!」
二人の気分の違いは縮(ちぢ)まりそうにもなかった。そして30分ほど経過したときだった。別の買物客の婆さんが店へ近づいてきた。この婆さんが二人の思いの違いを縮める役を果たすことになった。
「分かりましたっ! も、もういいですっ! 今回だけですよっ!」
婆さんが店に入るまでに…と思ったのか、主人は折れて、もう1パック追加して袋へ入れた。男は金を支払うと婆さんと入れ違いに店頭から去った。
「いらっしゃい!」
婆さんは苺を1パック買うと、何もなかったように帰っていった。
「また、どうぞ…」
主人は婆さんにサービスしなかった。要は、婆さんへのサービス分の1パックが先の買物客へ回ったということだ。婆さんとすれば、とんだ大損なのだが、そのことを婆さんは知らない。このように、違いは見えない損得勘定で消えることが多い。
完
限られた範囲で使用される「いつもの…」という曖昧(あいまい)な言い回しがある。当然、その受け方は「分かりました…」と格好よく品(しな)を作り、さもプロ風に指定された物を取り出す。周囲の人にその遣(や)り取りの意味が分からないと、余計その言い回しは格好よく見える。それが、「いつもの…」である。
不知火(しらぬい)横丁の路地裏に、いつも屋台を出すおでん屋があった。夕暮れが迫(せま)った頃、店の親父(おやじ)が提灯(ちょうちん)に灯(ひ)を入れると、決まったようにやって来る一人の男がいた。年の頃なら四十(しじゅう)半(なか)ば、その客が何をしているか・・を敢(あ)えて訊(たず)ねようとしない親父だったから、どういう男なのかまでは分からなかった。そうした関係がすでに20年以上、続いていた。そしてこの日も、その男は屋台に現れた。すでに椅子には勤め帰りのサラリーマン風の中年男が二人、冷や酒のコップを飲みながら、おでんを頬張(ほおば)っていた。
「へい、お越しっ!」
「いつもの…」
「へいっ!」
親父は心得たようにコップを前へ置くと、棚(たな)からボトルした一升瓶を取り出し、トトトト…と八分ほど注(そそ)ぎ入れた。男はその酒を一気に飲み干した。二人のサラリーマン風の男は唖然(あぜん)としてその男を見た。取り分けて変った男とも思えなかったが、置かれた一升瓶を見ると、手を震(ふる)わせ、慌(あわ)てて背広のズボンから財布を取り出し始めた。一升瓶には[清酒 人魂]というラベルが貼られていた。
「少し冷えるようになったねえ…」
「そうですねっ! いつもの…で、いいですかっ?」
「ああ、いつもの…」
「へいっ!」
親父は一升瓶の酒をコップへ注ぎ入れると、また馴れた仕草で皿の上に煮えたおでんを乗せ始めた。
「親父さん、勘定!」
居たたまれなくなったような声で男二人は立ち上がった。
「そうですねっ! 今日は、¥2,000ばかしで結構ですっ!」
「おお、そうかいっ! 安いねっ!」
落ちついた笑い口調だったが、二人の顔は青ざめていた。
「またのお越しをっ!」
二人は走り去るように屋台から消えていった。いつもの…は、怖(こわ)いのだ。
完
世間には、法律ではどうにも出来ない困った人種がいる。取り分けて暴力とか一般社会の迷惑にはなっていないのだが、その人がしたことが、他人から見れば困った人種だ! と、怒れる場合が困った人種である。この手の人種は悪人よりも性質(たち)が悪く、取り締まりようがない上に、捕(とら)えることすら出来ない。
通勤電車の中である。宮野(みやの)はこの朝も吊り革を持って立ち、電車に揺られていた。正面下には、50半(なか)ばの中年女、右下には通学風の中学生が一人、そしてどこから見てもホームレスとしか見えない60前の男が左下の座席に座っていた。宮野の視線は最初、車窓(しゃそう)に流れる景色を捉(とら)えていたが、いつの間にか三人を見下ろす格好になっていた。というのも、三人三様に困った人種だ! と思える仕草(しぐさ)が目の中へ飛び込んできたからである。正面下に座る50半ばの中年女は、人目も憚(はばか)らず、ボタ餅を素手(すで)でムシャムシャと食べ、手に付いた餡(あん)をぺチャぺチャと舐(な)め始めた。それが別に悪いというのではないが、宮野には女性の所作とは思えず、見たくもない困った人種だっ! と怒れた。そして、左下のホームレスとしか見えない60前の男といえば、伸(の)びた鼻毛を一本一本、手の指で引き抜くと、その毛を左の車体金属へ植え付け始めた。これ自体、宮野に実害はないのだが、汚(きたな)いからやはり見たくもなく、困った人種だっ! と怒れた。男は左隅で 「 形に座を占めていて、左には誰もいない。宮野は、思わず見まい! と上を見上げたが、首が痛くなり、しばらくすると仕方なく下ろした。宮野の左横に立つ同じサラリーマン風の若者は器用に釣り皮を持ちながら眠り、我、関知せず・・の風情(ふぜい)だった。右下の中学生はノートを見ながら、何やら呪文(じゅもん)を唱(とな)えるようなほとんど聞こえない小声で、「&$#%’””…」と、訳が分からないことを呟(つぶや)いていた。ほとんど聞こえない声なのだが、気になり出した宮野にとっては余計に大きく聞こえ、困った人種だっ! と怒れた。見まい! と怒れた宮野が、また車窓を見ようとしたとき、50半ばの中年女と、うっかり目と目が合ってしまった。
「お一つ、どうです?」
ぺチャぺチャと舐めた手で、笑顔の女はボタ餅を一つ、宮野の前へ差し出した。
「いえ、結構ですっ!」
宮野は困った人種だっ! と、汚い手で差し出した女に怒れたが、笑顔で、すぐ断った。
完
若かったあの頃の、ほのぼのとした追憶(ついおく)・・それは誰しもあるに違いない。これからお話するこの男、矢瀬川(やせかわ)にもそうした甘い思い出があった。
話は今から数十年ほど前に遡(さかのぼ)る。当時、矢瀬川はまだ三十前で、そろそろ俺も…と、真剣に結婚を考えていた頃だった。
ある日、同僚のOL、碧(みどり)が不意に矢瀬川の席へ近づいてきた。矢瀬川としては少なからず心を寄せている相手だったから、胸の鼓動は急に激しく早まった。
「あの…よかったら、このお弁当、食べて下さいませんか…」
「えっ?!」
唐突(とうとつ)な碧の言葉に、矢瀬川は意味が分からず、思わず訊(き)き返した。
「お嫌ならいいんですけど…。実は今朝(けさ)、妹の分も作ったんですけど、今日は休むとか言ったもので…」
「ああ、そうなんですか! 僕でよければ…」
「ええ、どうぞ…。矢瀬川さん、いつも外食なさってるんでしたよね?」
「はい、まあ…」
矢瀬川はいつも職場近くの大衆食堂で昼は食べていた。そのことは課内の誰もが知っていて、当然、碧も知っていた。矢瀬川は碧の言葉に内心、喜びで興奮していた。だが、それを悟られまいと態(わざ)と冷静を保ち、手作りの弁当を受け取った。矢瀬川は『愛妻弁当ならな…』と、勝手な想いを浮かべながら完食した。ブロッコリーとウインナ、出汁巻き卵、肉の味噌炒め・・と、手弁当にしては手が込んでおり、プロ並みの美味(うま)さだった。あとから矢瀬川が聞いた話では、碧の実家は料亭だそうで、碧自身も調理師免許を持っているとのことだった。その話を小耳に挟(はさ)み、矢瀬川は、なるほど! と納得したのだった。
その後しばらくして、碧は好きな相手と結婚退職し、弁当は矢瀬川の儚(はかな)い思い出となったのである。そして、数十年が過ぎ去り、矢瀬川は来年、退職を迎える年になっていた。
「あの…よかったら、このお弁当、食べて下さい…」
「えっ?!」
矢瀬川は、その唐突なOLの言葉を、どこかで聞いたことがあるぞ…と瞬間、思った。
「実は…母から手渡されたんです」
聞いた瞬間、矢瀬川はすべてを理解した。OLは碧の娘だったのである。矢瀬川はそれ以降、店で弁当を買って食べるようになった。課内では、弁当を食べながらニヤける矢瀬川の光景を、いつしか[矢瀬川弁当]と呼ぶようになった。なんでも、他の課からの見物者が、引きも切らないそうである。
完
バイメタルという金属物は、なかなか重宝されている。自動信号で切り替わる・・という性質の物ではなく、温度の高低により歪曲(わいきょく)したり伸びたりする伸縮性がある金属物なのである。この特性を利用して、今までも、さまざまな電気製品などの部品として利用されてきた。角鹿(つのじか)は金属そのものではなく、その理論的な部分を世界経済に取り入れられないものだろうか…と、コンビニで1個¥100のおにぎりを頬張(ほおば)りながら、偉そうに考えていた。テレビには今を時めく政界のお歴々が、議員バッチを光らせながら格差社会について論じていた。角鹿の背広には何も付いていなかった。ということは、偉(えら)ぶって考える必要もないのだ。しかし、角鹿は経済学者でもないのに、図書館の専門書から得た知識を生かし、研究をしていた。ケインズが唱えた有効需要理論の修正理論であるバイメタル理論である。この理論によれば、富裕層の富は一定の限界を超えれば、吐(は)き出さないと滅亡するというものである。またその逆で、貧困層の生活レベルが一定の限界を超えた段階で富裕層への道が開ける・・という夢のような理論である。角鹿は、もう1個、おむすびを買っておけばよかった…と雑念を浮かべながら、空いた腹で、そう思った。平等は、なかなかこの世では難しいのである。テレビのチャンネルを変えると、芸能人が美味そうに高価な料理を食べていた。ああ! いいなあ…と角鹿は、また思いながら残ったおにぎりを齧(かじ)った。
完