ここは泣く子も黙る東京地検特捜部である。
「令状も出た。明らかに収賄だ! 八百熊(やおくま)を拘束しろ!」
叫ぶ特捜部長、室田の声は心なしか擦(かす)れていた。
八百熊? 特殊第二班の面々は、誰もが訝(いぶか)しげに室田を見た。
「なにをボケっとしてる! すぐ出動だ!」
「八百熊ですか?」
第二班の一人、検察官の後藤がニタリとして室田に訊(たず)ねた。
「そうだ! 八百(やお)…俺、なんて言った?」
「八百熊ですが…」
室田は出がけに妻に頼まれた松茸が頭の片隅にあったせいか、思わず八百熊と口走ったのだ。室田が住む商店街にある八百熊の店頭には毎年、季節限定の盛り篭松茸が並ぶ。この盛り篭は人気があり、店頭に並ぶや僅(わず)か数日で完売となる、しろものだった。どういう訳か八百熊は店頭価格が箆棒(べらぼう)に安く、ひと篭で千円少々、高くて二千円までで産地直送というのだから、それも頷(うなず)けた。昨日の帰りに見たときはひと盛り、まだ残っていた。時間からして、あと一時間が限度だ…と室田は計算していた。その一時間は身をくらませた容疑者である農水省元審議官、山岳(やまたけ)が潜伏可能な時間と一致していた。どちらも一時間以内が勝負だった。山岳が先か、あるいは八百熊の松茸が先か…。ここは、なにがなんでも逃亡を阻止せねばならん! ここは、なにがなんでも売り切れる前に買い求めねばならん! 山岳は八百熊と、つるんでいる…。いや、いやいやいや、それはない! 容疑は大手食品会社への情報提供による収賄容疑である。室田の頭は錯綜(さくそう)していた。もし買えなかったら、泣く子も黙る鬼のような妻の罵声(ばせい)は覚悟しなければならなかった。
「や、山岳だっ! 何が何でも30分以内に身柄を拘束しろ!」
「はいっ!」
すでに出動準備は整っていた。整然と隊列を組んだ部員達が大手食品会社と情報入手した山岳の潜伏先を目指し、二手(ふたて)に分かれ検察庁を出ていった。室田は焦(あせ)っていた。山岳を拘束すれば、あとの取り調べは副部長達に任せ、すぐに退庁しようと思っていた。
その頃、どういう訳か潜伏先をあとにした山岳は、室田の街の八百熊で最後に残ったひと盛りの籠松茸を買ってほくそ笑んでいた。
THE END