トラウマとはトラとウマではありません。雑念の塊(かたま)りのようなものが引き起こす心の風邪のようなものです。
尾水もこのトラウマにここ半年ばかり悩まされていた。職場では日々、「お前は夜から出勤じゃないのか?」と冷やかされていたからである。尾水という苗字は別の意味で水商売を意味し、夜から酒で接客する職業を指す。早い話、バー、スナック、キャパレーなどの類(たぐい)の職業を指すのである。尾水の出勤=オミズの出勤というダジャレの冷やかし言葉だった。最初の頃は笑って受け流していた尾水だったが、冷やかす同僚が増えるにつれ、心理的な負担となっていった。ついには、トイレへ駆け込み、ぅぅぅ…と泣くまでになった。こうして、雑念が高じた尾水は、とうとう病院へ通う破目になった。
「尾水さん…」
若く奇麗な看護師にそう呼ばれたとき、尾水は思わず、ぅぅぅ…と、泣いてしまった。
「どうされましたっ!」
「いえ、別になんでも…」
尾水はそう返すのが関の山だった。
「どうされました?」
医師に病室でそう言われたとき、尾水は名前を呼ばれなかったことに、ひとまず安堵(あんど)した。
「なんと言えばいいか…」
「状態を心のままお話し下さって結構です。お気楽に…」
「ありがとうございます。実は最近、苗字を呼ばれると心が痛むんです…」
「ほう! どうしてですか?」
「私、苗字が尾水なんです」
「はあ、確かに…。それがどうかしましたか?」
「尾水と呼ばれるのは困るんです…」
「えっ!? よく分かりません。どうしてでしょう?」
「尾水はオミズの世界のオミズなんです、ぅぅぅ…」
「なにも、お泣きになることはないと思うんですが…」
「はい、すみません…」
「ははは…別にお謝りになることはないと思いますが…。分かりましたっ! うつ病前のトラウマですね。早く来院されてよかったですよ。焦(あせ)らず、気長に治療をしていきましょう」
「はい…」
「取り敢えず、お薬をお出ししておきます…」
医師にそう言われたあと、軽く挨拶をして尾水は病室を出た。待合室で待っているうちに、『本当に治るんだろうか…』という雑念が尾水の心に、また忍び寄った。
その後、尾水のトラウマが完治したのか? まで私は知らない。ただ、尾水
が笑いながら職場で働く姿を見ると、病(やまい)が完解したのは確かなようだ。^^
完