夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

バレンタインデーの経済効果を学び、老ボーイの私は微苦笑を重ねて・・。

2016-02-14 15:19:04 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
今朝、配達された読売新聞の朝刊を煎茶を飲みながら、読んだりした。

やがて私は8ページの【経済】のひとつの記事を読み終わった後、微苦笑を重ねてしまった・・。

読売新聞の経済部次長・下宮崇さんが、定例として『エコノ考』と題して記事を連載しているが、
今回は【チョコの味 甘く切なく】と副題を掲げられていた。

私はバレンタインデーの経済効果を学び、微苦笑をさせられ、
無断であるが、氏の記事を転記させて頂く。

《・・胸騒ぎの一日であり、ほろ苦い空騒ぎの日々であった。2月14日はバレンタインデーである。

本場の欧米では、男女を問わず花やケーキなどを贈り合うというが、
そもそもローマの聖人バレンティヌスの殉教の日が贈り物を交換し合う日になった理由は定かでない。

日本では1970年代以降、なぜか、女性が男性にチョコレートを贈って愛を告白するという独特の習慣が定着した。
日本記念日協会は、今年のバレンタインデーの経済効果を約1340億円と推計している。
クリスマス(約7000億円)には遠く及ばないが、ハロウィーン(約1220億円)や母の日(約1120億円)を上回る規模だ。
            

もっとも、この市場を支えているのは「本命チョコ」ではないらしい。
江崎グリコの調査では、女性が贈る相手は「女性の友達」が45%と最も多く、
次いで「父親」「交際相手」「夫」と続く。
「好きな人・告白したい人」は9%にとどまった。

つまり、女性から女性に贈る「友チョコ」が主流となっており、この傾向は2000年代前半、中高生の間で広がり始めたという。

「義理チョコ」の行方が気になるが、バブル期のOLが男性の上司や同僚に渡す負担はかなり重く、
“自粛令”を出す職場もあったことを思えば、もって瞑めいすべしである。

バレンタインデーが土日に重なると義理チョコ需要が減ると、百貨店やスーパーなど業界関係者は嘆いたものだ。

バレンタインとチョコを結び付けたのは、日本の菓子メーカーの商魂だとしても、
冬の風物詩に育てた功労者は、お中元やお歳暮といった贈答文化が根付く日本的慣習に目を付けた人かもしれない。

ビジネスチャンスは、知恵の絞り方次第でどこにでも転がっている。
欧米では子ども中心のハロウィーンが、日本では巨大テーマパークが火付け役となり、大人も街中で仮装する独自のイベントに大化けした。

義理から友へと時代は移れど、昭和世代としては、本命チョコへの郷愁も捨てがたい。
「サラダ記念日」の俵万智さんが短歌で詠んでいる。
 <男ではなくて大人の返事する君にチョコレート革命起こす>

とかく損得が重んじられる昨今、経済効果では計りきれない大切な何かを思い出させてくれる一日ではある。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は家内がスーパーで買い求めたチョコレートを総計千円以内の三種類を頂いたが、
私は一粒だけ家内から進められて、食べたりした。

我が家は、子供に恵まれなかったので、二人だけの家庭であり、
残りすべてを家内が、結婚以来食べる習慣となっていて、今年も家内が食べたりしている。

私は高価なチョコレートには関心はなく、
特売として80円前後の板チョコには好感しているが、三が月に一度ぐらい食べれば充分となっている。

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高齢者無職夫婦世帯の我が家、バレンタイン・ディーのささやかな贈物、恥ずかしながら披露すれば・・。

2016-02-13 13:58:28 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の苦楽の多い中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や12年生となっている身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
         
私は71歳の身となり、家内は66歳となり、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

世の中で夫65歳以上,妻が60歳以上の夫婦のみの世帯と称される高齢者無職夫婦世帯であり、
我が家も所属と成ったりしているが、ここ数年は団塊世代の人たちでも、
殆どの方たちがセカンドライフを始められて増大しているが実態となっている。
            

昨日、家内は独り住まいの家内の母宅に介護に行き、夜6時過ぎに疲れた表情で帰宅した。

今朝、私たち夫婦は、居間でのんびりと朝食を頂いていた時、
『あなたに渡すのを忘れていたわ』
と家内は私に言いながら、小さな紙袋を私に手渡した。

やがて私は紙袋を開けると、何かしらチョコレートの親戚ような物が三つ入っていた。
『いちおう日曜日になれば、バレンタイン・ディーでしょう・・昨日、帰宅の途中でスーパーで買ったのょ』
と家内は私に微笑みながら、言ったりした。

『疲れた時、わざわざありがとう・・でも高かったでしょう?・・』
と板チョコしか値段を知らない私は言ったりした。

『全部で千円を超えていませんから・・』
と家内は笑いながら言ったりした。

『そぉ・・それだったら・・気楽に食べられるょ』
と私は安堵しながら言ったりした。

やがて私は、たわむれにデジカメで撮ったりした。
            

  

私はチョコレートに関して、家内から長年に頂いているが、
私は少しだけ食べて、殆ど家内が頂いているが、結婚以来の実態となっている。

私はバレンタイン・ディーに、女性がそれぞれの思いを男性に託してチョコレートを贈呈する風潮は、
確かに25年前の頃からあったと思われるが、もとより私の若き20歳の頃は記憶になかった。

昨今、デパートのチラシの中には高価な15000円もあったりしていたので、苦笑したりした。

もしも私が25歳ぐらいの若き男性であったならば、
愛しき女性からは1000円ぐらいのバレンタイン・チョコレートを頂ければ充分だし、
何よりも食事をしたり、許される限り語り合いたいなぁ、と思ったりした。

そして私には、チョコレートの板チョクには、深い思いでを秘めている・・。
                      

私が1954年(昭和29)年の小学3年生になったばかりの時、私を可愛がってくれた祖父が死去した。
前年に祖父の長兄だった父が亡くなり、跡継ぎを失くし、
その上に祖父は病気となり、落胆した表情が少年の私さえ感じていた。

そして祖父、父が中心として、程ほどの広さの田畑を耕し、
多忙な時期は小作人だった人たちの助けも借りて農業をしていたが、
大黒柱の2人を失った生家では、長年の農業の技量の伝承が絶たれてしまったので、没落しはじめた・・。

こうした中で、母、父の末妹の叔母、長兄、次兄、私、そして妹のふたりが残された家族となり、
生活は困窮し始めた・・。
            
          
このような状況下の時、祖父の妹に当たる祖母のような心優しい人が、
何かと不憫に思い心配されて、とても私たちが日常生活で買い求めることのできない菓子などを持参してくれた。
その上、妹の2人には、何かと品を頂き、ときにはお揃いの洒落た下駄などを頂戴した。

この人が帰路する時、私は駅までの15分ぐらいの町道をこの方と共に歩いて、駅で見送った。
この少し前、このお方は私に、
『チョコレートでも買ってねぇ・・』
と私に百円玉ひとつを手渡して下さった。

この後、私は小汚い身なりであったが、駅前の商店街の菓子屋に行き、
まばゆい包装紙に包まれた一枚の板チョコレートを買ったりした。

そして私は駅前から急いで帰宅し、妹のふたりと割って食べたりした。

しかし恥ずかしながら告白するが、正確には私は少し大き目の3分の1であった・・。

あの家も貧乏になった、と少年の私さえ、近所の人たちの風の噂を聴こえたりしていたが、
この時ばかりは妹2人と食べあった板チョコは、この時は何かしら貧乏のことも忘れさせてくれた。

こうした体験を秘めた私は、たった一枚の板チョコレートであるが、
ここ10年前の頃からのベルギー産の高級品、宇治抹茶生チョコなどのチョコレートより、遥かに美味しく感じられるのである。

そして私にとっては、たった一枚の板チョコレートでも人生観を変えることがある、
と思ったりしている。
            

私が定年前の現役サラリーマン時代は、家内からは程々に高価なハート・マークのような品を頂いたが、
定年退職後の年金生活になると、なぜかしら板チョコが一枚となったりした。

そして6年前に高齢者入門の65歳となり、このお祝いのせいか、
ミルクチョコレート、ブラックチョコレート、ホワイトチョコレートの板チョコ3枚に昇格し、
これ以来、板チョコ3枚が毎年の恒例となっている。

日常の買物メール老ボーイの私は、最寄りのスーバーで買い物をしている時、
板チョコを見かけたりし、三か月に一回ぐらいブラックチョコレートを買い求めて、食べたりしているが、
特売として一枚80円前後の限りなく愛惜ある板チョコとなったりしている。

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満天の星空のように数多くのサイトがある中、遥かに縁遠いサイトだ、と老ボーイの私は苦笑し・・。

2016-02-12 13:41:30 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
今朝、目覚めたのは4時であり、家内は独り住まいの家内の母宅に介護に行く日であったので、
ノソノソと起きたりした。

まもなく私たち夫婦は居間で朝食を頂き、
やがて家内は、我が家の近くにある路線バスの始発に乗車する為に、
我が家を出たのは6時少し前であった。

私は門扉の近い道路に降り立って、家内を見送りながら、
『お義母(かあ)さんに・・よろしく・・』
と明るく大きな声で家内に言ったりした。

この後、配達された読売新聞の朝刊を煎茶を飲みながら、一時間ぐらいで読んだりした後、
ネットでニュースを見ようとパソコンを立ち上げたりした。
            

私はトップページとしては【YAHOO! JAPAN】に設定しているが、
トピックス・ニュースとして、10ばかり見出しが紹介されているが、
この中のひとつに、【 マンション違約金 課税に怒り 】と明記されていた。

私は古惚けた一軒屋に家内と共に住んでいるが、
どちらかが足腰が悪化したら、やむえずマンションに移転する思惑もあり、
どういうことなょ、とクリックした。

何かしら東京都心の「億ション」で、完成直前に建築確認を取り消しとなり、
入居契約をされた方が、突然の契約解除となり、おわびのお金が課税対象になっていたので、
入居契約をされた方は、怒り心頭となっている騒動のようであった・・。

私はどのような経過状況を知りたく、下段に掲載されていた、
【 2億円マンション「ル・サンク小石川後楽園」竣工直前で許可取り消し、契約解除 】
と見出しだされた記事を好奇心に負けて、クリックしてしまった。
http://media.yucasee.jp/posts/index/14894
☆【YUCASEE】:【2億円マンション「ル・サンク小石川後楽園」竣工直前で許可取り消し、契約解除】☆

私は初めて見るサイトで、『日本最大級の富裕層向け情報専門メディア ― YUCASEE media(ゆかしメディア)』と最上段に明記され、
最下段には『金融資産1億円以上の方は、プライベートクラブゆかしへ』と明示されていて、
私は動顛してしまい、詳細記事を読むことなく、退散してしまった。
            

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年〈平成16年〉の秋に定年退職を迎えたが、
この間、幾たびかリストラがあったりしたが、何とかくぐり抜けたが、最後の5年半はリストラ烈風となる中、
出向となったりした。

こうした中で、経済にも疎(うと)い私が、信愛している経済ジャーナリストの荻原博子さんなどの数多く著名人の寄稿文を読み、
デフレ経済の蔓延している中、公的年金を受け取りながら堅実に年金生活をし、
預貯金が3000万円あれば、少しづつ取り崩して生活すれば、少しはゆとりのある年金生活ができるかしら、
と学んだりした。

そして定年退職後は年金生活を始めて、丸11年が過ぎ、早や12年となっている。
            

世の中は少子高齢化の時代となり、社会保障費の年金、医療、介護などが膨張のする中、
私たち夫婦が頂いている厚生年金も年々削減されてきた・・。

我が家の年金生活の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

もとより年金は削減されてきたので、貯金は減ることがあっても、増えることがない実態となっている。

こうした中で、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑したりする時もある。
            

私は読書好きで、随筆、近現代史、ノンフェクション、月刊総合雑誌などの本を買い求めたり、
ネットでもビジネス総合情報誌として名高い『ダイヤモンド』、『プレジデント』などを見たり、
生活情報サイト、旅行情報サイトなども、好奇心を失くしたらこの世は終わりだ、と思っている私は、
あらゆる分野のサイトを見たりしてきた・・。

ネット全盛の昨今、満天の星空のように、それぞれのサイトが星となって輝いている、
と私は思い深めている。

しかしながら、今回初めて見た富裕層向け情報専門メディア【YUCASEE】は、
我が家としては、遥かに縁遠い世界だよなぁ、と私は溜息しながら退散してしまった。
            

私は70代の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら日々散策している。

こうした根底のひとつには、認知症だけは勘弁してょ、と念願して歩いたりしている。

我が家は乗用車、スマホも所有できず、家内だけが遅ればせながら携帯電話を半年前に覚え、
時代遅れの国民となっている。
まして海外旅行は、英語を思いだすように単語を並べる程度しか言えない私は、遠い異国の世界である。

更に世界の有数なクルーズ航路、別荘、ヨットなどは、遥かに遠い彼方のことであり、
せめてと思いながら国内旅行をして、各地の四季折々の旅路を幾たびか遊学している。
                    
このように年金生活を過ごしているが、霞(かすみ)を喰っては生活はできないので、
『生きがい』、『健康』、そして程ほどの『お金』が、セカンドライフの三種の神器と思う時もある。

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“ゲス不倫”の宮崎議員、国民を愚弄した罪は深く、少なくとも議員辞職を・・。

2016-02-11 15:38:54 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
昨今、世の中では甘利明TPP担当大臣が金銭授受疑惑で、大臣を辞職され、私は苦笑したりした。

私は古来より政治家は献金があり、遠い昔に元総理大臣の岸信介さんでも、
『濾過』された献金だったら、という名言があり、
甘利明議員は学ぶことがなく、有能な人であったが残念と思いながら、ガードが甘い、と苦笑したりしてきた。

或いは野球の名選手だった清原和博さんが、覚醒剤の問題などは、
野球としては突出した人であったが、社会人としては高校生のように余りにも無知だった、
と苦笑を重ねてきた。
            

最近、家内がテレビを視聴していた時、たまたま「育児休暇取得宣言」をしていた宮崎謙介衆院議員が、
奥様の金子恵美衆院議員が出産まじかに、女性タレントと不倫されていたと報じられて、
私は動顛した。

何かしら宮崎謙介衆院議員は、自らの結婚式後の囲み取材で国会議員としては、
前代未聞の「育児休暇取得宣言」をした上、更にテレビなどでも公言したりしてきた。

昨今でも、民間会社に勤める男性が、「育児休暇取得」を申請しても認められることは少ない風潮の中、
やむえず断念する方が多い、と私は感じている。

まして選挙民から信託された国家議員は多忙で重責が多く、公職の身であるので、
従来は断念してきた、と私は思われる。

こうした風潮を打破するように宮崎謙介衆院議員は、「育児休暇取得宣言」され、
男性でも育休取得をしょう、と願う男性に勇気を与えたが、
今回の事件で、人の期待を裏切った幼稚な言動は、社会的に於いて余りにも罪が深い。

奥様の金子恵美議員はもとより、多くの女性、男性にも愚弄し、
選挙区の京都3区の有権者に期待を欺(あざむ)いた言動も罪は深い。
            

宮崎謙介議員の今回の言動は、もとより社会人としても失格であり、
少なくとも議員辞職をして、猛省しながら四国の巡礼の旅路をして、歩かれるが妥当、
と私は願っている。

余談であるが、私は“ゲス不倫”などと程度の低い言葉は、テレビ番組で知り、
あえて今回は流用させて頂いた。

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睡眠こそが健康体の源である、老ボーイの私は、微笑みながら確信を深めて・・・。

2016-02-10 15:32:06 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
今朝、目覚めたのは8時であり、齢を重ねるとよく眠れるよなぁ、と微苦笑したりした。

昨日の朝、家内は独り住まいの家内の母宅に介護に行く日であったので、
私は深夜まで読書していて寝不足であったが、人生は気合だ、と自身を叱咤激励して起きたりした。

そして私たち夫婦は居間で朝食を頂き、
やがて家内は、我が家の近くにある路線バスの始発に乗車する為に、
我が家を出たのは6時少し前であった。

私は門扉の近い道路に降り立って、家内を見送りながら、
『お義母(かあ)さんに・・よろしく・・』
と明るく大きな声で家内に言ったりした。
            

やがて私は、8時半過ぎに自宅を出て、歩いて45分ばかりある都立・『神代植物園』を訪れた。
過ぎし1月28日にも訪れたが、18日に初雪が降った影響もあり、福寿草(フクジュソウ)、クリスマスローズ、
椿(ツバキ)の花の大半にも、めぐり逢えなかった。

しかしながら蠟梅(ロウバイ)は最良期であり、幾種類かの早咲き白梅、紅梅、黄梅(オウバイ)が咲き、
私は見惚(みと)れながら、心は充分に充たされた。

そして昨日は、冬晴れの3月中旬のような暖かさに恵まれて、
福寿草(フクジュソウ)、クリスマスローズも咲き、殆どすべての梅、椿(ツバキ)の花が咲き、
こんなに恵まれて良いかしら、と熱中しながら鑑賞したりした、
  

そして老ボーイの私でも、知恵熱がでるかしら、と無我夢中になる中で、
デジカメで、記憶かたみ、として生まれて初めて100枚ぐらい撮ったりした。

やがて帰宅後、デジカメの写真を整理した後、日に一通のブログの投稿文を送信できたのは、
午後5時過ぎであった。

まもなく家内は帰宅し、いつものように談笑しながら過ごし、
私は午後9時半過ぎに、疲れと眠気を感じて、布団にもぐったの10時半過ぎであった。
  

今朝、8時過ぎに洗面した後、9時間は熟睡してよく眠ったよなぁ、と微苦笑したりした。
やがて私は現役サラリーマン時代、多くの男性諸氏と同様に、
何かと睡眠不足で奮戦していた時代が思いだされたりした・・。

私は音楽業界のあるレコード会社に35年近く奮闘し、何とか2004年(平成16年)秋に定年退職をできた身である。
この間、コンピュータを活用した情報畑を20数年従事したりした。

こうした部署にいると、社内の幾たびかのシステム開発をしていると、
ビークを迎えると深夜2時過ぎに退社したり、或いは徹夜をしたりして、
日曜日以外は殆ど出勤し、奮闘する時もあったりした。

そして運営に安定すれば、数年後にはシステム部分改定をしたりしてきたので、
睡眠不足で奮戦し、過重労働などは死語だょねぇ、と互いに苦笑したりしてきた。
               

やがて最後の5年半は、リストラ烈風の中、無念ながら出向となった。
出向先は各レコード会社が、音楽商品のCD、DVD等を委託している物流センターであったが、
少し遠方の勤務地で、私の通勤時間は少なくとも1時間半は要していた。

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
9時半が始業時であり、私は8時過ぎに自宅を出て、45分前後の通勤時間で出社していた。

物流センターは暗黙のような規約として8時から始業時であるが、
その前の事前準備などを配慮すると、7時半過ぎとなっていた。

この当時の私は、朝の4時45分に起床して、自宅近くの路線バスの始発6時過ぎに乗車し、
通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』駅で、
この駅から下りの電車で『本厚木』駅まで利用した後、
そして路線バスに乗り継いで、各諸業界の物流倉庫が建ち並ぶ場所のある中、通ったりした。

このように12月の頃からの2月の頃まで、自宅近くのバス停は薄暗く、
冬至の頃には、小田急線の『新百合丘』駅付近の車内で、日の出を迎えたりした。

帰宅も夜の9時半過ぎが多く、帰宅後の最優先として風呂に入った後、10時過ぎに遅い夕食を頂きながら、
家内と一日の出来事などを談笑したりした。
やがて12時になると、やむなく布団にもぐったりした。

そして平日は睡眠不足であり、日曜日に昼寝で補(おぎな)ったりしていた。
睡眠不足で奮闘していた。
  

2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始めた・・。
こうした中で、午後からの大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして深夜まで読書に夢中になったりした時は、昼寝をしたりして、
年金生活の何より特権だねぇ、と微笑んだりしている。

私は年金生活を丸11年が過ぎ、12年生となっているが、
セカンドライフを健康で過ごすのは、適度の睡眠、運動、食事が肝要と思っている。
  

余談であるが、女性が心身はつらつと顔立ちが美しくなる根源は、
どのような高価な化粧品よりも、熟睡が大切ですょ、
と私は若き日に映画青年の真似事をしていた時、撮影所である高名な女優さんから教えられたことがあった。


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女性の『おひとりさま』でも、年金に不公平があると、遅ればせながら学び、やがて私は・・。

2016-02-09 17:11:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の男性の71歳の身であるが、
今朝、いつものように配達された読売新聞の朝刊をを読んでいる中、11面に於いて、
《年金課税 三つの不公平》の特集が記載されていた。

何かしら公的年金に対する課税の見直しが、政府税制調査会(首相の諮問機関)で議論され、
現役世代の給与所得者と比べて優遇が大きいことに加えて、高齢者の間でも不公平が生じている、
と報じていた。

そしてポイント〈1〉としては、
働いて下さる若年層と年金生活の高齢者層では、控除の差があり、不均衡である。

ポイント〈2〉は、
高齢化が進み、年金を受給しながら会社で働く人が増えているが、控除の併用が発生し、
働いて下さる若年層の控除とは、益々不均衡となる。

こうしたことは、私は漠然としながらも知っている。
            

私が無知であったことが、ポイント〈3〉である。
無断であるが、記事を転記させて頂く。

《・・一家の生計を支える人が亡くなると、残された家族に遺族年金(遺族厚生年金、遺族基礎年金など)が支給される。
老齢年金は、一定以上の収入だと課税されるが、遺族年金はそもそも非課税扱いだ。

これによって、高齢者の間で不公平が起きている。

例えば、ずっと独身で働き、老齢厚生年金と老齢基礎年金を合わせて年190万円受給するA子さん。
単身世帯の課税最低限(財務省試算で163万4000円)を超える部分に、所得税が課税される。

一方、ずっと専業主婦で夫に先立たれ、独り暮らしで夫の遺族厚生年金120万円を受け取るB子さん。
自分の老齢基礎年金70万円も受給でき、合計額はA子さんと同じ190万円になる。

だが、遺族厚生年金は非課税で、老齢基礎年金も課税最低限の範囲内。
所得税を納めなくて済む。

(略)同じ独り暮らしの高齢者なのに、遺族年金のほうが、老齢年金より優遇される今の仕組みは、
果たして公平なのだろうか。・・》
            

私は遅ればせながら、女性の『おひとりさま』でも、年金に基本的な差異があると、初めて知った。

やがて私は、現在、女性の『おひとりさま』で年金を受給されている方を思案すれば、
30歳前後の社会風潮としては、殆どの方は結婚されていた、と思い馳せたりした。

サラリーマンの家庭の場合、夫は一家の主(あるじ)として、家計の収入に長らく責務を果たしながら奮戦し、
妻は料理、洗濯、掃除はもとより、育児、やがて子供の学業などの支援など、
あらゆる面の後方支援となり、専業主婦として奮闘して、家庭の専守防衛長官を果たしてきた人が多い。

そして夫婦に子供二人前後の家庭で、高度成長と共に総中流社会となり、
国、厚生省(現・厚生労働省)も、良き意味で互恵関係が築き上げられた時代であった。
            

こうした状況下で、何かと裏方になる専業主婦に対して、
功労金として、以前は『配偶者特別控除』などが加算された時代もあったりした。

このような経過を踏まえて、独身のまま過ごされた女性より、専業主婦として奮闘していた女性は、
少なくとも家庭を維持する気配り、或いは子供の教育から結婚などを含めて社会全般として貢献度が高い、
と私は感じ、少しの不公平があっても、やむえない、と思ったりしている。

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林真理子さんの「ネットでは主語が削られ、文脈が変えられ・・」、私は微苦笑させられて・・。

2016-02-08 16:56:19 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
午前中のひととき、いつもように家内から依頼された品を求めに、独りでスーパーで買物した後、
本日も帰宅後、独りで自宅から数キロ以内の住宅街、遊歩道をひたすら歩き廻ったりした。

午後のひととき、ネットでニュースを見ようとしたら、
【 林真理子「ネットでは主語が削られ、文脈が変えられ…」】
と題された記事に、どのようなことなかしら、思いながら記事を精読した。

まもなく記事を読み終えた後、やがて私は微苦笑させられたりした・・。

この記事は、『週刊朝日』2016年2月12日号に於いて、《・・作家の林真理子さんは、
谷崎潤一郎賞をはじめ数々の賞を受賞し、社会問題についても積極的に発言をしている作家の高橋源一郎さんとの対談で、
活字の人間とネットの違いをこう語った。・・》記事であり、
【dot.】2月8日に配信され、この中の一部を無断ながら転載させて頂く。
            
              ☆掲載した写真すべて、本日の散策の時に撮った☆
《・・(略)・・
林真理子さん
アメリカでも、共和党のドナルド・トランプの支持率がどんどん上がってますよね。
まさか大統領にはならないと思いますが……。


高橋源一郎さん
アメリカの新聞では最初はキワモノ候補扱いだったけど、ここ最近はさすがに普通に批判するようになってきましたね。
「イスラム教徒の入国禁止」とか、常識で考えたらあり得ない主張をする人が、多数派の一歩手前まで来ちゃった。
ヘイトスピーチだって……。


林真理子さん
私、ああいうことを平気で言う人たちって、信じられませんよ。


高橋源一郎さん
ねえ。昔、親が、「人を口汚くののしってはいけません」
「“死ね”とか“バカ”とか言っちゃいけません」って教えてたよね。
右とか左の問題じゃなくて。


林真理子さん
いまはネットに匿名で書かれた悪口があふれてますから。
私たち活字の人間は、人を批判するときには、非常に注意深く言葉を選びますが、
それがネットでは主語が削られ、文脈が変えられ、「なるほど、こうなるのか」と思いますよ。


高橋源一郎さん
タガが緩んできたというか。僕や林さんみたいに言葉で生活してる者から見ると、怖いよね。
(略)・・》
            

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

そしてネットの世界は、殆ど無知な癖に、ホームページの開設を思案したりしていた。
自身のこれからの日々の思い、或いは過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文で綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
                      

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸11年が過ぎて、早や12年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                      
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
         
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
従って、数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。   
            

こうした私の投稿文の中に於いては、政治にも疎(うと)い私でも、余りにも心の節度が欠けた時の政治家には、
いたたまれず投稿文に認(したた)めたことがあったりした。

国際主要国は、歴史観、それぞれ国益に基づいて言動をされるが、
民主党政権下で鳩山首相が、いずれも欠如して、園児のようなふるまいだ、と非難文を投稿したりした。

或いは管首相の時代となったが、党内の権力闘争で、唐突な言動が多く、もとより肝要な閣僚の方たちに戸惑いをさせたりし、
私は無力ながら非難文を3通ぐらい書き、発信したりしてきた。

しかしながら、うすぎたない文章は私の人格を問われるので避け、たとえ痛烈な内容であっても、
義務教育で習った日本文を認(したた)めてきた。
            

こうした中で、私が体験してきたことは、コメント上で私は卑劣なコメントを幾たびも受けたりしてきた。

たとえば2005年(平成17年)の当時に、
あるブログに準じた簡易サイトに加入していた時、コメント欄に書き込みをして頂いた方があった。
《 タイトルは、《あいうえお》
  内容は、ゲボリッチ
      ゲボリッチャン
  発信人は、f4rr
  発信時間は、20.39 》
と綴られて、ご丁寧に8回連続されていた。

この時、私はこれには、困ったなぁ、と感じたりした。
私は大学中退の身であるが、書き込みをされた方は、たとえ大学、大学院などを卒業されても、
心の貧しい人と思っている。
          
或いは私の投稿文について、確か8年前の頃だったと思われるが、
文節が良くない、文法を無視することもある・・などと執拗に幾度かコメントされたことがあった。

私はつたないながら独創的な文体を目指(めざ)して、今でも悪戦苦闘しているが、
高等学校の国語の文法の先生のようなことをコメントするなよ、と私は無視したりした。

そして5年前に於いて、同一のお方からコメントを頂いたが、
私を精神XX病・・と書かれた上、ご丁寧にもある大学病院の10ぐらいの科を記載されていた。

そして私は、これには困ったなぁ、と苦笑しながら、コメントを削除した。
            

このようにネットの世界は、なんでもありの不思議な世界であるので、
林真理子さん、無念ながら主語も知らず、心の貧しい方が発信する人もいる、と笑い飛ばして下さい。

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老ボーイの私は、ときには早春の花のめぐり逢いを求めて、さまよい歩けば・・。

2016-02-07 15:44:00 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の71歳の身であるが、
いつもように平素の買物メール老ボーイの私は、家内から依頼された品を求めて、最寄のスーパーに行った後、
さて本日は、どの辺を歩こうかしら、と少し思案したりした。

やがて中学校、そして小学校の隣接は道を歩いたりしている時、
市立の『実篤公園』を寄ってみようと、と思い立ったりした・・。
            
               ☆掲載したすべての写真は、本日の散策の時に撮った☆

私は1944年(昭和19年)に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

そして、この頃の生家は、周辺は平坦な田畑、雑木林、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954(昭和29)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、やがて没落しはじめた・・。

そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。

こうした中で、私が小学5年生の頃、付近の国分寺崖に面した傾斜地に、
日本では有名人らしい人が引っ越してきた、と大人たちの間で話題のひとつとなっていた。

この当時の私は、『金子』駅(現・つつじが丘駅)の付近ある小学校から旧街道で登下校したり、
下校時の時は、ときおり遠回りして隣接駅の『仙川』の商店街を歩いたり、
或いはこの中間の田んぼの多い畦道を歩いたりして帰宅したりしていた。
            

このようなある日、私は田んぼの多い畦道を歩いたりしていたが、
国分寺崖の林の傾斜に寄り道をした。

そしては樹木の多い中で、孟宗竹の竹林が手入れされていなく密集ばかりし、下方に池があり、
池の近くで、独りの老人が難しいそうな顔して、池を見詰めていた。

『あの人が大人たちが噂している有名人かょ・・何か難しい顔しているが・・
だけど孟宗竹は生え放題・・孟宗竹のこと・・ぜんぜん解っていないなぁ』
と私は子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

後年、高校生になった私は突然に読書に目覚めて、下校時に『仙川』駅の本屋に寄った時、
店内の壁面に色紙とひとりの老人の写真が掲げられていた。

そして、さりげなく《武者小路実篤》と明示されていたので、
私はあのお爺さんが・・武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)かょ、と気づかされたのである。
            

私の生家から徒歩で10分ばかりに、武者小路実篤さんが、
《 水のあるところに住みたいという子供の頃からの願いどおり、1955年〈昭和30年)、
70歳の時に仙川の地へ居をかまえ、90歳で亡くなるまでの20年間を過ごした 》
と伝えられている。

そして氏の亡くなわれた後、数々の遺品とともに、ご遺族より調布市に寄贈され、
できる限り実篤が暮らした当時のまま保存され、
晩年の20年間を過ごした邸宅(現:実篤公園)の隣接地に、調布市が設立と整備して、
1985年〈昭和60年)10月に『武者小路実篤記念館』が開館した、
と私は市報などで知ったりしていた。

私は25年前に一度だけ訪れたことがあるが、この後は付近を通っても、立ち寄ることはなかったが、
年金生活を始めた2004(平成16年)の晩秋から、四季折々訪れてきた。
            
          
あの当時も孟宗竹は鬱蒼とあり、このように整備されておらず、野趣の中、
あまた雑木の情景に思いを重ねたりした。
        
過ぎ去った60年近い歳月を思い浮かべても、整備された公園に雑木だけは歳月を超越して、
四季折々のうつろいを私に見せてくれる・・。
            
           
ぼんやりと私は眺めているが、毎年同じように季節は巡って来ているように思われるが、
年々歳々 花相似 年々歳々 人不同
という漢詩のひとつを心の中で呟(つぶ)やくように、私は反復したりした。
          
もとより中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の頃に、
小説家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の作品から学んだひとつの詩である。

毎年たんたんと美しい花を咲くが、この花を観賞できる人は変っている・・

私はこのように解釈しながら、人生のはかなさを若き二十歳の時に、
この詩を学びだし、早くも50数年の歳月が流れている。

そして、果たして昨年、一昨年の今頃は、或いは来年の今頃は、と思い浮かべても、
せんなきことかしら、と微苦笑したりし、この公園を辞して、やがて仙川駅の方面を
あてどなく歩いたりした。
            

やがて『仙川』駅の商店街に近く、音楽専門学校の桐朋学園の隣接している路を歩いたりした。
            

そして本屋に立ち寄り、二冊ばかり買い求めた後、
家内のお気に入りのパン専門店『ANDERSEN(アンデルセン)』に寄り、
フランスパンを2本、そして家内のお土産としてケーキのような菓子パンを3つばかり買い求めて、帰宅した。

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いつの日にか亡くなる前の「お迎え現象」が体験できれば、と私は念願を深めて・・。 

2016-02-06 13:20:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
午前中のひととき、ネットでニュースを見ようとしたら、
【 亡くなる前の「お迎え現象」 本当にある? 故人と会い恐怖和らぐ 】
と題された記事に、どのようなことなの、と思いながら記事を精読した。

やがて私は、いつの日にか亡くなる前の「お迎え現象」が体験できれば、と私は念願を深めたりした。

今回、偶然に読んだ記事は、読売新聞の基幹ネットのひとつの医療・介護・健康情報サイトの【yomiDr. 】であり、
利根川昌紀・記者が記載された記事で、2月4日に配信されている。
無断であるが転載させて頂く。
            

《・・家族や知り合いが亡くなる前、誰もいないのに誰かと会話をしている様子を見せたり、
「故人が会いに来た」と語ったりする場面に遭遇した経験はないだろうか。
これは「お迎え現象」と呼ばれ、送られる人にも送る人にも意義のあることだという。

神奈川県藤沢市のA子さん(65歳)は2014年6月、96歳の母親を看取(みと)った。
歌が大好きでよく歌っていたが、少しずつ体力が落ち、あまりしゃべらなくなった。
ところが、亡くなる3週間ほど前から、部屋に誰もいなくなると、手ぶりを交えて言葉にならない声を発するようになった。

A子さんらが部屋に入ると、動きはぱたりと止まる。
「誰とお話ししていたの」と尋ねても答えてはくれなかった。
ただ、A子さんは「時折、父の遺影を見て会話をしているようでした。
父がお迎えに来ていたのかもしれません」と振り返る。


A子さんは10年、その父親を亡くした際も、お迎え現象を経験した。
亡くなる3週間ほど前、父親は、1歳で亡くなった長男が自宅に来ている、とはっきりした口調でつぶやいた。

その時は「亡くなった人が来るわけないじゃない」と信じなかった。
だが、没後、知り合いの住職から「お迎えが来ていたんだね」と教わった。
A子さんは「父も母も家族とともに、あの世に逝ったと考えると気持ちが楽になります」と話す。
            

お迎え現象は、どのくらいの人に起きているのだろうか。
島根大教育学部准教授(宗教社会学)の諸岡了介さんらが2007年、
自宅で家族を看取った経験がある遺族を対象に実施した「お迎え」体験に関する調査では、回答した約4割の人が「あった」と答えた。

A子さんの母親を診ていた同市の湘南中央病院在宅診療部長の奥野滋子さんは
「入院中の患者さんにも、お迎え現象は起きていると思います。
『話すと変だと思われる』という意識が働くのか、入院患者さんからそういう話を聞くことは、あまりありません」と話す。

末期がんや認知症などを患って全身状態が悪くなると、
しばしば「せん妄」と呼ばれる意識障害を引き起こす。
お迎え現象は、せん妄とは違うのだろうか。

奥野さんは「はっきりした違いはわかりませんが、
せん妄の場合は、恐怖におびえて苦痛を伴い、話す内容も混乱しています。
一方、お迎えの場合は、患者さんの意識ははっきりしていて、ストーリーもきちんとしています」と説明する。


奥野さんは昨年9月、父親を亡くした。
その際、父親にお迎えが来たという。
旧制高校のサッカー部の仲間4人が来たようだった。
そこで、父親に真っ赤なユニホームを着せて送り出したという。
            

静岡大農学部教授(死生学)の竹之内裕文さんは、お迎え現象が果たす役割について、こう考えている。
「多くの人は死に対して、不安を持っているが、自分の大切な人やペットなどがお迎えに来ることで、
恐怖心が和らぐのではないか。
送る人にとっても、一人で旅立たせたのではない、と考えることができ、気持ちが救われる部分があるのではないだろうか」

◇「お迎え」体験に関する調査
=宮城県の診療所の協力で、2003~07年に家族を自宅で看取った682人を対象に実施。
回答した366人のうち42・3%が、「故人が生前、お迎え体験をしたようだ」と答えた。
来たのは、「亡くなった家族や知り合い」とする回答が多かった。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。
しかしながら命ながらえば、やがていつの日にか、介護を受ける身となる。
          
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であり、
もとより子供に介護などは頼ることは出来ないので、いつの日にか介護を要する身となった時は、
介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、漠然としながらも思案する時もある。
          
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。
            

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
         
或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。

やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。
そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

このように70代か80代のいつの日にか末期となると思われるが、
こうした私の念願は、果たして・・どのようになるか、今の所は漠然としている。


こうした中で、私は人生の中で、鮮烈なひとに「お迎え現象」が体験できれば、最良と感じたりした。
            

もとより未経験であるが、やはり私は小学2年生の時に父に病死され、これ以来は母に育てられてきた。

何かと私の人生に影響があり、母から叱咤されたことや、私がサラリーマンで奮闘していた時代に、
家内が作ってくれた『御節料理』を独り住まいの母宅に持参し、
3時間前後談笑し、20年間続けてきた、《ひとこま》が浮かぶかしら、と思ったりした。

或いは家内と長年、人生の荒波を共有してきたので、この世で一番信愛できる戦友であり、
やはり苦楽の日々の、《ひとこま》が浮かぶかしら、と思ったりしている。

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健康で長生きをすれば、やがて公的年金は1億円が支給されたことになる、と老ボーイの私は、夢想して・・。

2016-02-05 13:59:54 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の苦楽の多い中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や12年生となっている身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
         
私は71歳の身となり、家内は66歳となり、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、我が家から遠い地で独り住まいをしているが、
家内の母は自身の身の周りは出来ても、長女の家内は季節の変わるたびに、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、ここ11年の恒例のようになっている。

そして昨年より家内の母は、膝(ひざ)、腰も悪化して、家内は介護で行く時もあり、
この間、私は我が家で『おひとりさま』の生活をしてきた・・。
       

今朝、家内は始発バスに乗車して、家内の母の宅に行った。

やがて私は、ときには早朝の散策も身体に良いかしら、と思いながら、
我が家の近くに流れている野川の遊歩道を歩いたり、公園に寄ったりした。

こうした中で、公園の広い芝生で30数人の男女が少し間隔を開けて、身体を動かしていた・・。

私は遠望から眺めていて、ゆったりとした動作であったので、
もしかしたら中国で発生した『気功』かしら、と思ったりした・・。

何かしら主に体内に「気」を循環させ「気」の質やコントロールする能力を高める内気功と、
身体に必要な「良い気」を外から体内に入れ、
身体に合わない「悪い気」を体外に排出させるなど「気」の積極的な交換を行う外気功とに大別される、
と過ぎし日に、私は雑誌で読んだりしてきた。

そして30数人の男女は、私と同じような年配の人たちで、
健康と気力がセカンド・ライフの中で、何よりも欠かせない、と感じたりした。
       

やがて帰宅後、朝食を独りで頂いた後、居間に陽射しが差し込んでいる所で、ぼんやりとしていた・・。

過ぎし2014年の平均寿命は、女性86.83歳、男性80.5歳と大幅に伸び、
健康寿命も女性は約74歳、男性は約71歳で、
晩年期の難関として、健康寿命から平均寿命までは、女性が約12年、男性が約9年となっていることを
思い浮かべたりした。

こうした中で、2014年簡易生命表による生存率に寄れば、90歳時点でも女性の48.3%、男性の24.2%は、
95歳時点でも女性の24.4%、男性の8.7%、お元気な方もいる。

このような状況の中、40兆円の医療費は65歳以上が半分以上を占め、
やがて団塊の世代が75歳以上となる2025年には、要介護者が爆発的に増加し始め、約50兆円に達すると予測されている。

しかし、団塊の世代が75歳以上となる時は、介護職員を253万人に増やす必要があるにもかかわらず、
推計では介護職員は215万2000人にとどまり、37万7000人の不足が生じると予測されている。
          
このようなことを思い浮かべたりすると、溜息を重ねたりし、
やがて介護に無縁で、長生きして公的年金を1億円まで支給されるまで、と夢想した・・。
       

健康でいきいきとした日常生活を過ごせるのは、少なくとも歩くことが肝要である。
そして殆ど方は公的年金を頂き、国民健康保険、介護保険、所得税などを支払い、
ご自身のいきがいを主針として過ごせれば、心身健全かしら、と思い重ねたりした。

我が家の場合は、厚生年金は夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯の平均受給額に近いが、
やがて長寿となれば、通算として1億円が支給されたことになるよなぁ、と微笑んだりした。

そして出来うれば、介護にお世話にならず、
国と私たち夫婦は、お互いに微笑み合うことができる互恵関係でいられるよなぁ、
と夢想を重ねたりした。

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暦の上では立春を迎え、三寒四温の中で冬麗の情景に心を寄せて、微笑ながら・・。

2016-02-04 15:09:54 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを見ると、『立春』と朱記され、私は微苦笑させられたりした。

過ぎし1月6日に『小寒(しょうかん)』となり、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、その後の1月21日には『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月4日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

『寒の内』と称せられる『小寒』、『大寒』そして『立春』までの時節は、
旧暦であるので、今の暦(こよみ)に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの地域でも、寒い時節となる。
      
こうした中で、3月中旬のような暖かい日もあれば、平年より寒い日もあり、
この時節は三寒四温の時節、と遥か千年前の頃から名言されている・・。

やがて女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、
何かと天上の気候の神々のきまぐれな采配に寄る三寒四温する中、私は日本水仙、椿(ツバキ)、或いは白梅に励まされながら、
冬麗の美を心の友と私は思いながら、冬の季節をここ11年ばかり過ごしたりしてきた。
       

私は年金生活を始めた当初より、自主的に平素の買物専任者を宣言し、買物メール老ボーイの身であり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチな為か利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                 

私は民間会社の中小業で35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めたので、年金生活は丸11年が過ぎ12年生の身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったで、たった2人だけ家庭であり、
東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みで、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家に住んでいる。
       
そして私の生家に近くにあり、この地域に私は結婚前後5年を除き、早や66年となっている。
本日の地元の天気情報を視(み)たりすると、
朝の6時はプラス1度、昼下がりは11度前後、夜の6時は7度前後、
冬晴れの暖かい日となり、平年より少し暖かい日かしら、と微笑んだりした。
       

私は自宅の近くに流れる野川の川沿いにある遊歩道、小公園、
そして歩いて45分ばかりの都立・神代植物園などを、その日の心情に応じて、歩き廻ったりしている。

たまたま本日は、野川の川沿いにある遊歩道を歩き、10度近い暖かな陽差しの中、寒さを感じることなく、
防寒着のフィールド・ジャケットを着ることなく、スポーツシャツにフリーフで、歩いたりした・・。
       
          
川の水辺の近くには、コサギ、ダイサギ、カルガモ、カワセミなどが数多く観られ、
愛好者の方たちは写真を撮る方も見かけることがあるが、
私は興味がなく、陽射しを受けた川面、清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景に魅せられている。
       
          
そして遊歩道に隣接したマンションの数10棟の広い庭が、小公園として解放されている中を
歩いたりした。
       

私はこうした情景が好きで、毎週ように歩いて、季節のうつろいを享受している。
       

或いは帯状に小公園となり700メートル前後あり、
この時節は、桜(サクラ)、クヌギ、コナラ、白梅、公孫樹(イチョウ)などの冬木立となり、
暖かな陽差しを枝越しに眺めたりすると、
時が止まったように静寂なひとときを過ごすのが、この世の最良の時かしら、と定年退職後から深め過ごしてきた・・。
       

ときには公園を訪ねたりすると落葉樹の冬木立の景観を見せている。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラ、ケヤキの樹木が中核となっている・・。

そしてハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。
          

私は足を止めて、陽だまりとなっている木のベンチに座り、しばらく見つめたりすることが多い・・。
       

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花がひっそりと咲いている。

このように冬木立の眺めたり、光がきらめく空を眺めたりし、
古人から冬麗(とうれい)と称されている情景に、心を寄せている。
          

この時節、私の住む地域は、寒さを増しても、
庭の黒土の上にうっすらと霜となり、ところどころ霜柱も見られる。

そして数年に一回ぐらい小雪が舞い降る時もあるが、5センチ前後である。
       

私の小学生の頃までは、毎年少なくとも3回ぐらい30センチ前後の雪が降ったりしてきたので、
何かしら愛惜感が増したりしているので、国内旅行は何かと東北地方、北海道に家内ほ誘い、遊学することが多い。

しかしながら家内は家内の母宅に介護で行くことが多いので、今年は冬の旅路は断念している。

そして旅行は、非日常であり、女の子が全国的に祝賀される3月3日の『桃の節句』まで、
何かと天上の気候の神々のきまぐれな采配に寄る三寒四温する中、私は冬麗の美を心の友として歩いたりしている。
       

こうした中で、ときおり何故かしら『冬景色』の歌を心の中で唄ったり、
人影のいない遊歩道の中で、かぼそい声で『冬景色』を唄ったりしているのが、
定年後の年金生活の中で多くなっている。
http://www.youtube.com/watch?v=r3sZKBnr6t4
【『冬景色』 作詞・作曲 不詳  文部省唱歌、唄・芹 洋子、合唱・東京放送合唱団 1984/1 放送 】

私の幼年期、私の住む地域でもこの当時は、
田畑が広がり雑木林もある緑豊かな農家の児として育ち、私は心のふるさとの限りない情景として、
齢を重ねるたびに愛惜が深め、このような心情を秘めているひとりである。

この歌は、1913年(大正2年)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出と知られているが、
作詞はどなたが創られた不明であるので、この創られた方に心を寄せたりし、
ときおりこの歌を聴いたりすると、どなたが歌っても、私は涙ぐんでしまう時が多い・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、 或いは失ってしまった純粋な心を甦(よみがえ)させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解らない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は恥ずかしながら理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は、少しは解るつもりである。
       

やがて2月下旬になれば、玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら10数輪ばかり咲き、
その後は澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)となる中で、小庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らむ。

そして3月を迎えれば、予告もなく南の風が吹き、、
私は三寒四温の時節は、女の子が全国的に祝賀される『桃の節句』で終わりにしてょ、と毎年心の中で願ったりしてきた。

その後、南の風が吹くたびに暖かさを増して、主庭の水仙、白梅は満開となり、やがて紅梅に咲き、
我が家の小庭は遅ればせながら水仙、白梅、紅梅が彩(いろど)られてるのが、毎年の習わしとなってきた。
                                                  

このように思い馳せたりして、冬晴れの陽射しの中で、ぼんやりと佇(たたず)んだりし、
果たして、この先の天上の気候の神々の采配は、どのようになるの、と私は青空を見上げたりしている。

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節分の日、鬼もいない我が家は、『豆まき』を断念して、やがて過ぎし年を思い馳せれば・・。

2016-02-03 14:36:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であるが、
3日前にいつものように買物メール老ボーイの私は、家内から依頼された品を求めにスーパーに行った。

そして店内の一角に、節分に関しての特選コーナーが設置され、
「福 節分豆」はもとより、「福 恵方巻」が五種類ぐらい、「福 いわし」、「福 節分そば」などもあり、
或いは「鬼ごし」の日本酒の銘柄も販売されて、私は苦笑したりした。

やがて私は、一袋100粒ぐらい入った『福豆』を追加して、帰宅した。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は過ぎし年の 2004年(平成16年)の秋に、私は定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
料理、洗濯、掃除などの家事は、初心者となり、何かと専業主婦の家内に頼り、
いつの日にか覚えないと、私が病気になったら大変ょ、と家内から私は言われたりしてきた。

こうした中で、家事に関して家内が実家に里帰りして帰宅した後、
台所にある皿、茶碗などの置き場に、
こうした方が効率的だし、見た目に綺麗でしょう、と家内から私は言われたりしてきた。

『XXちゃんの仰(おっしや)る通りです!』
と私は家内に言ったりし、年金生活を重ねると、何かと私は家内に従順さを増してきたので、
我が家は鬼もいないなぁ、と微苦笑したりしてきた。

私は年金生活をしていると、齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もなく、『節分の日』には、
日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求めた福豆を、
夕暮れの時に、家内と煎茶を飲みながら食べたりして過ごしてきた。
          

私は幼年期の頃は、いじけて可愛いげのない児であったが、『節分の日』には、ささやかな想いを秘めている・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、激しく叱咤されたりした。

祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
          

こうした中で、私が少学校に入学する1951年(昭和26年)の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。


この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。
神社の鳥居に入ると、が聳えるようになり、小高い丘が聳えるようになり、
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた神社がある。
          

そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、
          

神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

そして、『節分の日』になると、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を3割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、神社の高台に赴(おもむ)きで、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の生家から、少なくとも300メートルは離れていたが、家の中で居ても充分に聴こえたのである。
『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に言ったりしていた。

生家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は、戸締りが終わっていた。
          

やがて夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言ったりしていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
各部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に言った。

私は、6つだけかょ、と言いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
私はおまけと言いながら、こっそりと三つばかり余計にとった。

そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。

このような祖父、父たちに囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。
          

その後、私が現役のサラリーマン時代だった頃もささやかな想いを秘めている・・。

私はある民間会社の中小業に勤め、サラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
特に40歳前後は、情報畑に在籍し、システム開発と運営業務が重なり、
睡眠時間を削りながら、奮闘していた時であった。

この『節分の日』には帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。
そして、今日は終電の少し前で良かったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

やがて私は疲れた表情で冬コート、スーツを脱いで、ネクタイをはずし、
ワイシャツ姿で、いつものように洗面所で顔を洗ったりした。
この後、私はパジャマに着替えて、冬のガウンをはおると、深夜の12時近かった。

家内が、『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』と言ったりした。

私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、と素直に何かしら納得出来なかった。

『今からでも、遅くないよ・・』
と私は言って、私は雨戸を開けた。

『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で、小庭に向って連呼した。

周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダの前のガラス戸が開いた。

XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうようなしぐさが、私なりにぼんやりと解かった。

しかし、良きことの行事に対しては、ご近所の皆様からは、幸いにクレームがなかったと、
私は後日に、家内から聴いたりした。
          

このようなささやかな『豆まき』の想いでを私は秘めている。

そして叶わぬ夢であるが、息子か娘がいて、孫がいたら、
私は『節分の日』には孫を引き連れて、『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と盛大に豆まきをするだろう、と夢想を重ねたりしした。

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所得税の確定申告、年金生活の私、医療費は約百万円で、還付金は4千円足らずに微苦笑して・・。

2016-02-02 16:11:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
昼食後、所属地域の武蔵府中税務署から郵送された『所得税の確定申告書』の作成をした。

過ぎし5日前、病院の医療費、これに関連した治療の薬代金、
或いはドラッグ・ストアーで買い求めた薬代金などの領収書を保存していた封筒を取り出して、
整理した後、算出したら我が家では昨年に於いて、初めて医療費が約百万円となったりした。

主因は私が白内障の手術を左眼、右眼の両眼を受け、手術代だけでも、
342000円X2=684000円となったりした。

本日、平年より少し早く作成したのは、恥ずかしながら医療控除に伴い、税金の戻りである還付金は3万円ぐらいかしら、
と淡い期待感を秘めていた・・。
          
          ☆掲載した写真すべて、本日の午前中に散策し、たわむれに撮った☆

やがてネットの国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』をパソコンで開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力している。

そして年に一回の作業なので、忘れてしまったかしら、と不安げにパソコンの画面を見たりしている・・。

私は恥ずかしながら『e-Tax』の方法に自信がなく、定年後のここ11年は、
ネットの国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』をパソコンで開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力している。

この後『所得税の確定申告書』の用紙の最後のページに添付されている『下書き用』に転記した後、
提出分の本書に清書しているのが、毎年の実態となっている。
          

今回も厚生年金、わずかな企業年金、据置き年金保険の『収入金額等』、そして『所得金額』、
国民健康保険、介護保険、配偶者控除、基礎控除、医療費控除などの『所得から差し引かれる金額』、
或いは『税金の計算』などの算出方法が解からないので、
この国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』を頼りにして、項目、計算結果を転記している。
          

そして今回、『課税される所得金額』が自動計算され、0円と表示された・・。
私は社会人となって46年は過ぎたが、初めてであり、驚いたりした。

やがて『還付される税金』が、4000円少し足らない額が表示され、
どうしてなのょ、と淡い期待感が消滅し、落胆したりした。

しかし老ボーイの私は、素直に理解できないので、武蔵府中税務署に電話で問い合わせをした・・。

やがて中年の男性が応対して下さり、
『所得金額』から『所得から差し引かれる金額』を差し引かれたのが、『課税される所得金額』と思いますが、
私は試算すると初めてマイナス60万円となりましたが、
『確定申告書等作成コーナー』の自動計算ですと、0円と表示されました、と私は言ったりした。

まもなく、控除額が多くても、収入額が少ないケースは、『課税される所得金額』は0円となります、
と中年の男性が応(こた)えて下さった。

私は恐縮しながら、ご親切にありがとうございました、と礼をべたりした。
          

やがて私は、収入が少ないと、税金もわずかだし、
いくら医療費が約百万円となっても、『課税される所得金額』は0円評価だねぇ、と呟いたりした。

そして儚(はかな)くも、還付金は4千円足らずとなってしまい、微苦笑したりした。

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医療費控除の誤解ベスト5:勘違いしてませんか?、私は教示され、やがて微苦笑して・・。

2016-02-01 15:24:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
5日前に所属地域の武蔵府中税務署から、
『所得税の確定申告書』の用紙等在中の郵送物が、我が家の郵便受け箱に入っていた。

そして私は表紙を見たりして、
《 申告書の提出は、平成28年3月15日(火)までです 》と明記されていた。
               
過ぎし年の 2004年(平成16年)の秋に、私は定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
厚生公的年金、企業年金、個人年金を受け取り、
やがて家内も昨年に65歳となり、厚生公的年金、企業年金をわずかな額であるが頂いているので、
私たち夫婦は共に年金を頂く夫婦となっている。

私は高齢者の少しボケてきた身なので、それぞれの関係先から昨年の12月頃に送付されてきた
源泉徴収票を指定の封筒に入れて保管している。

そして医療費控除に関しては、私たち夫婦のどちらかが歯の治療費が多く、
病院の医療費、これに関連した治療の薬代金、
或いはドラッグ・ストアーで買い求めた薬代金などの領収書を保存している。

何かと愚図な私でも、ボチボチ『所得税の確定申告書』の作成を開始しょうかなぁ、と思ったりしてきた。
          

先程、ネツトでニュースを見ている中、
【 医療費控除の誤解ベスト5 5つ全て勘違いしてませんか? 】と見出しされた記事を偶然に見たりした。
私は何かと思いこみが強い単細胞なので、誤解があったら大変だ、と思い、
こっそりと精読してしまった・・。

この記事は、小谷晴美さんが寄稿されて、初めて見る『マネーの達人』の2月1日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。

《・・確定申告で最もポピュラーな医療費控除ですが、「何が対象になるか」、
「いくら税金が返ってくるか」など意外と誤解されていることが多いように感じます。

日ごろのセミナー参加者の方の反応から、感じる医療費控除に関する誤解を、独断と偏見でランキングにしてみました。

皆さんもこんな誤解をしていませんか?
          

◎第1位 医療費控除は10万円から!

「10万円を超えないと、医療費控除は受けられない」と思い込んでいませんか?

総所得金額が200万円以上の方は、10万円を超えた額が医療費控除の金額となりますが、
総所得金額が200万円未満の方は、所得の5%を超えた金額が、医療費控除の金額となります。

■A子さんのケース
・夫   : 会社員、年収500万円
・A子さん: パート収入125万円
・1年間の世帯の医療費合計額:7万円

A子さんは医療費控除は受けられるでしょうか?

会社員やパート、アルバイトの方など給与所得者の場合、必要経費として「給与所得控除」があり、収入に応じて計算されます。

A子さんの所得は、収入から給与所得控除額65万円をひいて60万円となります。
所得の5%は3万円ですから、医療費の合計額7万円から3万円を引いた4万円が医療費控除の額となります。

A子さんの所得:年収125万円-給与所得控除額65万円=60万円

医療費控除の額:医療費合計額7万円-所得の5%の3万円=4万円

所得が200万円以下になる年収の目安は以下の通りです。

・パートや会社員:給与収入310万円以下
・年金生活者:公的年金収入316万円以下

尚、フリーランス、個人事業者の方は、売上-必要経費で所得を計算します。
          

◎第2位 確定申告をすれば医療費控除の金額が返ってくる!

A子さんの場合、医療費控除の額は4万円でしたね。では、実際に税金が還付(減額)される金額いくらでしょう?

「4万円」ではありません。

所得税・住民税合わせて約6千円が還付(減額)されることになります。

医療費控除は所得控除の1つです。所得控除は税率を掛ける前の課税所得を減じるものです。

従って4万円に所得税から税率5%(※復興所得税を入れると5・105%)を乗じた金額の約2千円が還付され、
住民税は税率10%を乗じた4千円が減額されます。
          

◎第3位 保険等の給付があったら医療費の合計から給付額を引く!

第医療費控除の対象になる医療費は「実際に支払った医療費の合計額-保険金などで補てんされる金額」で計算します。

■B子さんの場合
・入院にかかった医療費8万円
・入院に対する給付金14万円
・入院以外にかかった医療費の合計額12万円

B子さんの医療費控除の対象になる医療費は、いくらになるでしょう?

20万円-14万円=5万円ではありません。
医療費控除の対象になる医療費は、12万円です。

保険給付金は、給付対象となる入院や治療費からのみ差し引きます。引ききれなくても他の医療費から引く必要はありません。
          

◎第4位 交通費は対象にならない!

通院交通費を医療費控除の金額計算に入れていない方も多いです。

公共交通機関の料金は領収書がなくても、通院交通費として医療費控除の対象となる医療費に加えていただけます。
子どもの通院など付き添いが必要な場合は、付き添いの交通費も対象になります。
尚、タクシー代は症状等により対象になる場合があります。


◎第5位 保険がきかない治療費は対象にならない!

保険がきかない自由診療も目的が治療で、一般的に支出される水準を著しく超えなければ、
医療費控除の対象となります。

子どもの歯列矯正やインプラントなども対象となります。
医師による不妊症の治療費及び人工授精の費用も医療費控除の対象となります。
市販薬も治療目的の医薬品であれば対象となります。
          

いかがでしょうか?
加えていない項目があったり、計算方法など勘違いしていたものは、なかったでしょうか?

尚、順位については、あくまでも私見に基づくものです。ご了承ください。
また、個別具体的に対象になるかならなか等、詳細については税務署にご確認ください。(執筆者:小谷 晴美)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は今回の記事に於いて、特に教示させられたのは、我が家は年金生活の為か、第3位から第5位である。
そして私は、昨年に白内障の手術を左眼、右眼の両眼を受けたので、手術代など領収書は保管している。

こうした中で、手術した日に限り、タクシーで我が家に帰宅したが、医療費控除の対象となる、
と学び、微苦笑したりした・・。

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