夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

いつの日にか亡くなる前の「お迎え現象」が体験できれば、と私は念願を深めて・・。 

2016-02-06 13:20:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
午前中のひととき、ネットでニュースを見ようとしたら、
【 亡くなる前の「お迎え現象」 本当にある? 故人と会い恐怖和らぐ 】
と題された記事に、どのようなことなの、と思いながら記事を精読した。

やがて私は、いつの日にか亡くなる前の「お迎え現象」が体験できれば、と私は念願を深めたりした。

今回、偶然に読んだ記事は、読売新聞の基幹ネットのひとつの医療・介護・健康情報サイトの【yomiDr. 】であり、
利根川昌紀・記者が記載された記事で、2月4日に配信されている。
無断であるが転載させて頂く。
            

《・・家族や知り合いが亡くなる前、誰もいないのに誰かと会話をしている様子を見せたり、
「故人が会いに来た」と語ったりする場面に遭遇した経験はないだろうか。
これは「お迎え現象」と呼ばれ、送られる人にも送る人にも意義のあることだという。

神奈川県藤沢市のA子さん(65歳)は2014年6月、96歳の母親を看取(みと)った。
歌が大好きでよく歌っていたが、少しずつ体力が落ち、あまりしゃべらなくなった。
ところが、亡くなる3週間ほど前から、部屋に誰もいなくなると、手ぶりを交えて言葉にならない声を発するようになった。

A子さんらが部屋に入ると、動きはぱたりと止まる。
「誰とお話ししていたの」と尋ねても答えてはくれなかった。
ただ、A子さんは「時折、父の遺影を見て会話をしているようでした。
父がお迎えに来ていたのかもしれません」と振り返る。


A子さんは10年、その父親を亡くした際も、お迎え現象を経験した。
亡くなる3週間ほど前、父親は、1歳で亡くなった長男が自宅に来ている、とはっきりした口調でつぶやいた。

その時は「亡くなった人が来るわけないじゃない」と信じなかった。
だが、没後、知り合いの住職から「お迎えが来ていたんだね」と教わった。
A子さんは「父も母も家族とともに、あの世に逝ったと考えると気持ちが楽になります」と話す。
            

お迎え現象は、どのくらいの人に起きているのだろうか。
島根大教育学部准教授(宗教社会学)の諸岡了介さんらが2007年、
自宅で家族を看取った経験がある遺族を対象に実施した「お迎え」体験に関する調査では、回答した約4割の人が「あった」と答えた。

A子さんの母親を診ていた同市の湘南中央病院在宅診療部長の奥野滋子さんは
「入院中の患者さんにも、お迎え現象は起きていると思います。
『話すと変だと思われる』という意識が働くのか、入院患者さんからそういう話を聞くことは、あまりありません」と話す。

末期がんや認知症などを患って全身状態が悪くなると、
しばしば「せん妄」と呼ばれる意識障害を引き起こす。
お迎え現象は、せん妄とは違うのだろうか。

奥野さんは「はっきりした違いはわかりませんが、
せん妄の場合は、恐怖におびえて苦痛を伴い、話す内容も混乱しています。
一方、お迎えの場合は、患者さんの意識ははっきりしていて、ストーリーもきちんとしています」と説明する。


奥野さんは昨年9月、父親を亡くした。
その際、父親にお迎えが来たという。
旧制高校のサッカー部の仲間4人が来たようだった。
そこで、父親に真っ赤なユニホームを着せて送り出したという。
            

静岡大農学部教授(死生学)の竹之内裕文さんは、お迎え現象が果たす役割について、こう考えている。
「多くの人は死に対して、不安を持っているが、自分の大切な人やペットなどがお迎えに来ることで、
恐怖心が和らぐのではないか。
送る人にとっても、一人で旅立たせたのではない、と考えることができ、気持ちが救われる部分があるのではないだろうか」

◇「お迎え」体験に関する調査
=宮城県の診療所の協力で、2003~07年に家族を自宅で看取った682人を対象に実施。
回答した366人のうち42・3%が、「故人が生前、お迎え体験をしたようだ」と答えた。
来たのは、「亡くなった家族や知り合い」とする回答が多かった。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。
しかしながら命ながらえば、やがていつの日にか、介護を受ける身となる。
          
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であり、
もとより子供に介護などは頼ることは出来ないので、いつの日にか介護を要する身となった時は、
介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、漠然としながらも思案する時もある。
          
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。
            

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。
         
或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。

やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。
そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

このように70代か80代のいつの日にか末期となると思われるが、
こうした私の念願は、果たして・・どのようになるか、今の所は漠然としている。


こうした中で、私は人生の中で、鮮烈なひとに「お迎え現象」が体験できれば、最良と感じたりした。
            

もとより未経験であるが、やはり私は小学2年生の時に父に病死され、これ以来は母に育てられてきた。

何かと私の人生に影響があり、母から叱咤されたことや、私がサラリーマンで奮闘していた時代に、
家内が作ってくれた『御節料理』を独り住まいの母宅に持参し、
3時間前後談笑し、20年間続けてきた、《ひとこま》が浮かぶかしら、と思ったりした。

或いは家内と長年、人生の荒波を共有してきたので、この世で一番信愛できる戦友であり、
やはり苦楽の日々の、《ひとこま》が浮かぶかしら、と思ったりしている。

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