夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

節分の日、鬼もいない我が家は、『豆まき』を断念して、やがて過ぎし年を思い馳せれば・・。

2016-02-03 14:36:15 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であるが、
3日前にいつものように買物メール老ボーイの私は、家内から依頼された品を求めにスーパーに行った。

そして店内の一角に、節分に関しての特選コーナーが設置され、
「福 節分豆」はもとより、「福 恵方巻」が五種類ぐらい、「福 いわし」、「福 節分そば」などもあり、
或いは「鬼ごし」の日本酒の銘柄も販売されて、私は苦笑したりした。

やがて私は、一袋100粒ぐらい入った『福豆』を追加して、帰宅した。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は過ぎし年の 2004年(平成16年)の秋に、私は定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
料理、洗濯、掃除などの家事は、初心者となり、何かと専業主婦の家内に頼り、
いつの日にか覚えないと、私が病気になったら大変ょ、と家内から私は言われたりしてきた。

こうした中で、家事に関して家内が実家に里帰りして帰宅した後、
台所にある皿、茶碗などの置き場に、
こうした方が効率的だし、見た目に綺麗でしょう、と家内から私は言われたりしてきた。

『XXちゃんの仰(おっしや)る通りです!』
と私は家内に言ったりし、年金生活を重ねると、何かと私は家内に従順さを増してきたので、
我が家は鬼もいないなぁ、と微苦笑したりしてきた。

私は年金生活をしていると、齢を重ねるたびに人出の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手となり、
自宅で豆まきをする元気もなく、『節分の日』には、
日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求めた福豆を、
夕暮れの時に、家内と煎茶を飲みながら食べたりして過ごしてきた。
          

私は幼年期の頃は、いじけて可愛いげのない児であったが、『節分の日』には、ささやかな想いを秘めている・・。

私は1944年(昭和19年)の秋、農家の三男坊として生を受け、
祖父と父が健在だった頃までは、東京の郊外で農家をしていた。
そして、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕し、雑木林、竹林などがある旧家であった。

長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

父からは、こうした私に対しては、ふたりの兄と同様に、激しく叱咤されたりした。

祖父は幼児の私を不憫と思ったのが、私を可愛がってくれたた数々を私は鮮明に記憶している。
そして、私の生を受けた時、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。
          

こうした中で、私が少学校に入学する1951年(昭和26年)の春の前、
『節分の日』の情景は、私なりに鮮烈に心の片隅に今でも残っている・・。


この当時、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。
神社の鳥居に入ると、が聳えるようになり、小高い丘が聳えるようになり、
陵山(みささぎやま)といわれる小高い丘となり、高い所には老樹に囲まれた神社がある。
          

そして左側には、それぞれの旧家が奉納した大稲荷神社があり、
          

神社といっても、歴史ばかりは由緒ある処であるが、村の住民で維持管理されている程ほどの大きさの神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

そして、『節分の日』になると、それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を3割方ぐらい入れ、
夕暮れになると、神社の高台に赴(おもむ)きで、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の生家から、少なくとも300メートルは離れていたが、家の中で居ても充分に聴こえたのである。
『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に言ったりしていた。

生家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は、戸締りが終わっていた。
          

やがて夜の7時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言ったりしていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
各部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と父の妹の叔母が私達に言った。

私は、6つだけかょ、と言いながら、
次兄の手には、もとより私より多くあったので、
私はおまけと言いながら、こっそりと三つばかり余計にとった。

そして私は、自分だけ取ったのが何かしら恥ずかしかったので、
2人の妹にそれぞれ1粒づつ手にのせたりたりした。

このような祖父、父たちに囲まれて、楽しげなひとときであったが、
私が小学2年の3学期の終る早春に父は病死され、そして1年後には祖父に死去され、
大黒柱となるふたりが亡くなったので、生家は没落をしはじめた・・。
          

その後、私が現役のサラリーマン時代だった頃もささやかな想いを秘めている・・。

私はある民間会社の中小業に勤め、サラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
特に40歳前後は、情報畑に在籍し、システム開発と運営業務が重なり、
睡眠時間を削りながら、奮闘していた時であった。

この『節分の日』には帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。
そして、今日は終電の少し前で良かったよ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

やがて私は疲れた表情で冬コート、スーツを脱いで、ネクタイをはずし、
ワイシャツ姿で、いつものように洗面所で顔を洗ったりした。
この後、私はパジャマに着替えて、冬のガウンをはおると、深夜の12時近かった。

家内が、『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』と言ったりした。

私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、と素直に何かしら納得出来なかった。

『今からでも、遅くないよ・・』
と私は言って、私は雨戸を開けた。

『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で、小庭に向って連呼した。

周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダの前のガラス戸が開いた。

XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうようなしぐさが、私なりにぼんやりと解かった。

しかし、良きことの行事に対しては、ご近所の皆様からは、幸いにクレームがなかったと、
私は後日に、家内から聴いたりした。
          

このようなささやかな『豆まき』の想いでを私は秘めている。

そして叶わぬ夢であるが、息子か娘がいて、孫がいたら、
私は『節分の日』には孫を引き連れて、『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と盛大に豆まきをするだろう、と夢想を重ねたりしした。

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