昨夜、愛読しているネットの【 現代ビジネス 】を見ている中で、
【 阿川佐和子さんが両親の介護から学んだ「看る力」 】と見出しを見たりした・・。
私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく74歳の身であり、
阿川佐和子さんには、私はお逢いしたこともないけれど、姪っ子のように長年思ったりしている。
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文学青年の真似事をしたりした。
こうした中、私は阿川弘之さんの数多く小説、随筆を乱読してきたが、
特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、阿川弘之さんには慈父のように敬愛を重ねてきた。
この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ15年近く、再三に私は愛読している本でもある。
父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。
父の阿川弘之さんは、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに多々教示されたりした。
或いは阿川弘之さんの数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして御長女・佐和子さんも記載されていた。
このように私は、阿川弘之さんの愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
阿川弘之さんの随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
たまたま過ぎし2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。
《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・ですから親の14光り、かしら ・・》
このような意味合いの言葉を発言されたりし、私はこの御方の感性に、瞬時に魅了されたりした。
もとより阿川佐和子さんは多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之さんの文章の手ほどきを受けたりし、その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたことを
阿川佐和子さんの初期のエッセイで、私は知ったりした。
この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、この御方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。
やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。
こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。
そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんが、お見舞いに訪れる情景の写真があった。
私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、御歳を召された、と悲しんだりした。
そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。
それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。
読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、55年近くになり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っ子に対する心情のような思いで、ここ20年ばかり読んだりしている。
過ぎし2015年の8月3日、阿川弘之さんは老衰のため逝去、と公表された5日の新聞で知り、
慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、
阿川弘之さんの遺(の)された数多くの作品を再読したりした・・。
このような心深情を秘めている私は、今回の『阿川佐和子さんが両親の介護から学んだ「看る力」』を、
精読した。
この記事の原文は、講談社が発刊する『 週刊現代 』の2018年9月1日号に掲載された記事のひとつで、
阿川佐和子、大塚宣夫・共著の『看る力 アガワ流介護入門』(文春新書)上梓に伴い、
窪木淳子さんが阿川佐和子さんにインタビューされて、纏(まと)められた記事である。
そして関連のネットの【 現代ビジネス 】に2018年8月25日に配信され、無断であるが転載させて頂く。
《・・阿川佐和子さんが両親の介護から学んだ「看る力」
――ベストセラーとなった『聞く力』や『強父論』の著者で、インタヴュアー、女優として活躍する阿川佐和子さん。
父で作家の弘之氏を看取り、現在は認知症の始まったお母様の介護もしています。
☆不機嫌な父を変えたもの
――『看る力 アガワ流介護入門』では、ご自身の経験を踏まえて、
高齢者医療の第一人者である大塚宣夫医師と、介護について対談していますが、
先生とはどのように出会ったのでしょうか。
阿川佐和子さん
父は2015年に病院で最期を迎えました。
入院のきっかけは、転倒からのケガと緊急手術で、その時、誤嚥性肺炎も起こしていました。
90歳を超えてから罹患する誤嚥性肺炎は非常に危険で、もう無理かとも思いましたが、奇跡的に回復できました。
当時父は、母と二人暮らしでした。
その頃から母は、物忘れをするようになっていて、病後の父の世話をするのは無理だったんです。
とはいえ父は、元気なうちから「老人ホームに入るくらいなら、自殺してやる」なんて言っていた人。
そんな父に適切な転院先があるかと悩んでいた時、
今回対談した大塚先生が開設なさった『よみうりランド慶友病院』(東京都稲城市)のことを聞いたんです。
――大塚先生は、「自分の親を安心して預けられる施設にしたい」という思いから、
ユニークな老人病院作りをしています。
阿川佐和子さん
大塚先生のところへ転院が決まっても、父は「また病院か」と不機嫌でした。
ところが、いざ病院で、お昼を食べたら「うまい!」と言ったんです。
老人施設を嫌悪していた父でしたが、大塚先生の病院のご飯の美味しさに胃袋を掴まれ、
入院に納得してくれました。
普通に食事ができるようになると、今度は「鰻(うなぎ)が食べたい」と言うんです。
さすがに小骨のある鰻(うなぎ)は、ダメだろうと先生に相談したら、
「いいですよ。好きなものはすんなり喉を通ります」とにっこり。
「晩酌がしたい」と言った時にも「どうぞご自由に」。
もう、びっくりしますよね。
「食べることは、人間の最後まで残る楽しみ。
生きる楽しみを最優先して、原則自由な入院生活を送ってもらう」のが先生の方針なんです。
――大塚先生は、病の治療を最優先する一般的な老人病院とは、異なる発想をしているのも特徴的です。
阿川佐和子さん
一般的に、お医者さんの使命は、患者さんを治療して回復させることなので、
医療の世界では、食事が喉を通らなければ、点滴などの手立てを考えます。
しかし大塚先生は、医療よりも介護、介護よりも生活を重視して、優先順位をひっくり返したんです。
「食べたくない日があってもいい、入浴したくない日があってもいい。
家庭での生活と同じリズム、パターンを可能な限り継続してあげることが
高齢者の幸福につながるはずだ」と考えて、
介護される側の気持ちを尊重した病院作りをなさっています。
☆「看られる側」も苦しんでいる
――お母様の介護の経験が語られる個所では、「イライラしたら、笑っちゃおう」など、
介護をする人にとって、参考になる言葉が多く紹介されています。
阿川佐和子さん
現在、認知症の症状のある母を介護していますが、母は実に明るいボケ老人なんです(笑)。
朝、母を起こそうとしても、全然起きる気配がないことがありました。
「起きて!」と布団をパッと剥がしたら、「あら、あんた、お化粧してるの?」と。
「そういう問題じゃないから、とにかく起きて」。
起きない母とのやりとりが、延々と続いたあとに
「あらあんた、お化粧してるの? きれいね」って。
思わず吹き出してしまいました。
介護は長期戦だからこそ、イライラするところを、笑いに変えるのが重要だと思います。
――「介護をする側」だけでなく、「介護をされる側」も苦しんでいる、と語られているのが印象的です。
阿川佐和子さん
最初に認知症に気づくのは、自分自身なのだろうと思います。
家に紙袋を堆積させてしまった母と、ケンカをしながら、片づけたことがありました。
袋の中は、ほぼ紙くず。
そこにメモを見つけたんです。
母の字で「どんどん忘れていく」、「もうダメ、ばかばかばか」と書かれていました。
その時に初めて、母自身も苦しんでいると気づいたんです。
認知症になると、さっきやったことを1分後には忘れてしまいます。
周囲は「もとに戻ってほしい」という切なる思いがあるからこそ、
「なんで忘れるの!」と怒ってしまいます。
でも認知症の人の行動には、その人のなかで、ちゃんと理由があるんです。
声をかけて返事がないから耳が遠くなった、徘徊し始めたから認知症が重くなったと、
介護する側が自分本位に決めつけるのではなく、
相手のペースや気持ちに寄り添いながら、認知症の進行とともに変わっていく、
相手を受け入れていきたいと思っています。
――本書の後半では、自分が「看られる」側になった時への備えについても語られています。
阿川佐和子さん
定年後の男性も、一人暮らしができるくらいに家事能力を鍛えましょうという話をしています。
ラーメンや炒飯くらいは作ることができて、
衣類の場所くらいは、わかっていないと奥さんが先に逝った場合、自分の生活が保てなくなってしまいます。
また、自分が稼いできた蓄えは、子供のために残しておくと考える人が多いそうですが、
家族との関係を良好に保つためにこそ、自分の貯金は自分の老後のために惜しみなく遣うことも、
ときには大切だと思います。
誰もが、死だけは自分で選べないわけで、
介護する側、介護される側、両面から検討しておくのは、無駄ではないはず。
体力と判断力のあるうちに、いろいろと考えておくのが得策です。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は記事を読み終わって、介護される阿川佐和子さんのお気持ち・・深く教示されたりした。
私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなり、遠方地に独り住まいをして、
ここ3年は介護・要の身となっている。
長女の家内と次女の家内の妹は、逐次連絡しあって交互に、
家内の母宅に殆ど宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。
こうした中、家内は6泊7日前後で、家内の母宅に行っている時は、
私は我が家で独りぼっちの『おひとりさま』の生活を過ごしている。
このように私たち夫婦は、年金生活の中、何かと家内の母の状態に左右されることもあり、
家内は老々介護の中で、家内の思いをできる限り叶えようとして、疲労困憊になる時もある。
このような家内の母のしぐさ、願いを家内から私は、少しばかり聞いたりしてきたので、
今回の介護される阿川佐和子さんの思い、私なりに心身に深く学んだりした。
そして高齢者医療の第一人者である大塚宣夫医師の信条、
《・・食べることは、人間の最後まで残る楽しみ。
生きる楽しみを最優先して、原則自由な入院生活を送ってもらう・・》
こうしたことに私は敬服させられたりした。