私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であり、
午前中のひととき散髪屋(理容店)に行った後、いつものようにスーパーで買い物し、帰宅した。
そして煎茶を飲んだ後、駅前に出かけた・・。
私の住む所は最寄駅としては京王線の場合は『仙川』、『つつじヶ丘』駅、
そして小田急線だと『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』駅のほぼ中間地点で、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みの辺鄙な処に、結婚の5年前後を除き60数年住んでいる。
そして、これらの駅前までの道のりは、徒歩で15分から25分程度であり、
特に年金生活になると散策がわりに歩いたりしているが、
ときには旅行、冠婚葬祭、都心に買い物などの場合は、バス、タクシーを利用すると10分足らずである。
たまたま本日は、この中のひとつである『仙川』の駅をめざして、歩いたのである。
家内から鉛筆の『B』か『2B』が欲しい、と要望されたりしていた。
『仙川』駅の商店街には、文房具用品が販売している店は三店あり、
都立の高校、専門学校の音楽専門学校の桐朋学園、そして女子校の『白百合学園』もあるので、
本屋も少なくとも三店ばかりある。
家内は平素のメモ書き、旅行を思案したりする時などは、
以前はポールペンを使い、その後はシャープ・ペンシュルを使ったりしてきたが、
昨今は鉛筆の『HB』を使っていたのであるが、少し筆感が柔らいのが欲しい、
呟(つぶや)いたりしていた。
私の住む近くの最寄り駅もコンビニ、スーパーなどの影響で、
街中の文房具屋が淘汰されることが多く、
私もポールペン、A4の厚手のノートのお気に入りも少なく、
困窮する時もあり、こうした時は文房具屋に数軒探し求めたりすることもある。
もとより『調布』、『成城学園前』の駅前には、大きな文房具の専門店があるが、
何かと手軽な街中の文房具店で私は買い求める習性がある。
そして『仙川』のある文房具店で、家内の三菱鉛筆のHiーuni『B』と『2B』を
それぞれ1本づつ買い求め、
お気に入りになれば良いがと思いながら、買い求めたりした。
この後、私が日常のメモ書き、外出先でも愛用しているポールペンの
パイロットのSUPER-GPの0.7、1.0、1.2別に
それぞれ黒、青、赤色を2本づづ購入したりしたが、こうしたことは一年に一回ぐらいで買い求めている。
問題はA4の厚手のノートであり、表裏のカバーが堅牢の厚手を買い求めてきているが、
なかなかお気に入りがなく、母を訪ねて三千里のような思いの時もあったりし、
毎年に一冊ぐらい購入してきている。
このノートに日常の心象を記したり、旅行の時は持参して宿泊先で書き留める悪い癖が、
定年後の年金生活の習性のようなことになっている・・。
たとえば過日の越後湯沢の旅の時、宿泊先で夕暮れのひととき、
【・・仲居さんのひとり・・黒髪で30代の前半ぐらい・・
平素の館内はセミロングで、食事処ではポニーテール風に髪を束ねて、麗(うるわ)しい・・】
このようなことを心象としてメモったりした。
或いは真摯に文學のことを思索し、書き留めたりした。
【・・
ささやかな私の川端康成の思いは
今回の旅は、家内が近くて源泉掛け流しの温泉地でゆっくり過ごしたいわ、という思いで、
ある旅行会社の企画のひとつとして、《 源泉掛け流しの老舗旅館 源泉卵の湯『雪国の宿 高半』4日間 》
と題された越後湯沢の旅館に宿泊する団体温泉滞在型に参加することにしたのであるが、
もとより作家・川端康成が1934(昭和9)年の秋より逗留し、
『雪国』を執筆された宿として有名であるので、私は少し困ったなぁ、というのが本音であった。
私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年で、
高校の時に遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりしたが、
やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。
その後、養成所の講師の知人のアドバイスで、小説に転じ、
文學青年の真似事をして、契約社員などをしながら、小説の習作をしたりした。
純文学の新人賞に投稿していたが、三回ばかり最終候補6作品の寸前で敗退し、
落胆していた時、親戚の叔父さんから、
今は良いが、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職し、中小業の民間会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004(平成16)年の晩秋であった。
私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。
こうした拙(つたな)い身ながら、若き日には文學青年の真似事をしていた時期は、
もとより日本文学の作品は読んでいたりして、
中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであったと思われる文学全集を基盤に、
数多くの作家、作品を読んだりしていた。
そして川端康成の代表作とされる『伊豆の踊子』(1926年)、『禽獣』(1933年)、『雪国』(1935年 - 1948年)、
『千羽鶴』(1949年)、『山の音』(1954年)、『眠れる美女』(1961年)、『古都』(1962年)等の作品は、
当然ながら読んでいたが、『雪国』、『眠れる美女』は苦手であった。
今回の旅立つ前に、私は書庫から二冊を本を抜き出して、この中の一部を再読したりした。
ひとつは純文学の月刊雑誌の『新潮』(新潮社)が、氏が1972〈昭和47〉年4月に自裁された後、
6月臨時増刊号として《 川端康成読本 》と発刊されて本である。
あとの一冊は、河出書房新社が《文芸読本》シリーズが作家別に発刊されて、
『文芸読本 川端康成』は1977〈昭和52〉年8月に発行された本であった。
ともに氏の作品、この当時の有力な各作家、評論家による氏の作品批評、そして人物批評が、
掲載された内容であった。
この中で私が圧倒的に突出していると感じたのは、
作品批評として、《川端文學の問題点》の特集の中に作家・立原正秋が寄稿した『川端康成のエロティシズム』であり、
人物批評としては、《小説 川端康成》の特集の中に作家・五味康祐が寄稿した『魔界』であった。
いずれも『新潮』(新潮社)の6月臨時増刊号として《 川端康成読本 》である。
このふたつの寄稿文を私は脳裏に残しながら、
今回宿泊先した『雪国の宿 高半』の館内の氏を中核とした展示室、
或いは『雪国』を執筆したという「かすみの間」が保存されている処を見たりしていた。
そして川端康成がどのような人物批評であれ、どのような言動をしても、
作家は遺(のこ)された作品がすべてである、ということを改めて深く感じさせられたのである。
・・】
このように私にとっては、たかがノートされどノートであり、
今回お気に入りのノートは、わずか750円であったが、私にはこれからの一年ぐらいの心象を書き留めたりするので、
心の宝物と微笑んだりしている。
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