夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『みどりの日』を迎え、つたない私でも新緑に心まで染められて・・。

2012-05-04 15:46:20 | 定年後の思い
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『みどりの日』と朱記され、
確か1989(平成元)年の頃から4月29日であったと思われるが、
いつのまにか5月4日になったの、と戸惑いながら、
《自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ》と趣旨されている前に於いては、
多少の日付の移動なんかは、現世の政治の混迷を深めた憂い比べれば、もとより大勢に影響ない、
と何かと四季折々の樹木のうつろいに限りなく魅了されている私は微笑んだりした。

私は若き頃、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしたが、
あえなく敗退し、やむなくサラリーマンに転職し、
35年近く音楽業界のあるレコード会社に勤め、定年退職となったのは2004年の晩秋であった。

私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

こうした中で、日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』となり、
この間の中間地域となり、いずれもバスの利便性は良いが、
年金生活の今は殆ど散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。

このような生活を過ごしているが、先ほど自宅の近くに流れる野川を眺めながら、
この川の両端にある遊歩道を独りで歩いたりしてきた・・。

今年の2月の初めの頃は、
冬晴れに恵まれた眩(まばゆ)いの陽射しの中、川の水辺の近くに、
小鷺(コサギ)、大鷺(ダイサギ)、カルガモの親子が遊泳していたり、
或いは白鶺鴒(ハクセキレイ)、カワセミ、ときおりコゲラなども飛来してきているが、
私は興味がなく、陽射しを受けた川面に見惚れたり、そして清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景に魅せられたりしてきた。

そして遊歩道を少し歩くと、小公園となり30本前後の落葉樹は冬木立の景観を見せていた。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラの樹木が中核となして、
ハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
午前の暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。

私は足を止めて、木のベンチに座り、煙草を喫ながら長らく見つめたりしていた・・。

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花が数輪が咲いていた。

このような情景に心をゆだねていると、時のながれが止まったように感じたりした。

帰路に向い、2本ばかり大きな欅(ケヤキ)の樹が陽射しを受け、
悠然(ゆうぜん)と青い空に向うように、たわわな枝を伸ばしている情景を見たりし、
遊歩道から住宅街の歩道を歩いたりした。
そして垣根などで白、淡紅色、ビンク色した可憐な山茶花(サザンカ)の花を見たり、
椿(ツバキ)の幾分小さめの朱紅色の藪椿(ヤブ・ツバキ)の花を眺めたりするした。

私の住む地域に於いては、この時節の冬の里花は少なく、
つい私は山茶花、藪椿に目がいってしまう。

そして秘かに私の心の片隅みは、山茶花は女性、少女、少年の婦女子の眺める花であり、
藪椿こそは大人の男性でも、感銘を受けて、そして心寄せられる冬の花のひとつ、
と齢を重ねるたびに深く感じたりしている。


今年の節分を迎えた2月は平年より寒い日が続いた為に、
我が家の小庭では、3月中旬に遅ればせながら白梅、紅梅は満開となる中、純白の日本水仙も咲いたりしていた。
そして茶花のひとつとして愛されている白玉椿(シラタマ・ツバキ)も咲き始め、
私は春到来だよねぇ、と喜びをかみしめたりしてきた。

そして5本ばかりのモミジ、花梨(カリン)、無花果(イチジク)などの雑木は芽吹きを迎え、
やがて日増しごとに成長し、幼き葉から葉を広げ、新た若葉となっている。
この間、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)の新芽も伸びだし、
垣根がわりのアカネモチは、朱紅色の新芽が勢いよく伸び、
その後は眩(まぱゆ)く朱紅色の若葉に変貌し、彩(いろど)りとなっている。

私は自宅から3分ぐらい歩いた先に野川があるが、
清流の水面(みなも)を眺めたり、この遊歩道や近くの公園を殆ど毎日のように散策したりしてきた。、
コナラ、クヌギ、モミジ、欅(ケヤキ)などの雑木の芽吹きが始まり、
その後の幼い葉が見られる木の芽時(このめどき)の時節の情景に、
齢を重ねる毎に私の心は深まってきている。

そして櫻の樹木は、付近の公園や野川の遊歩道、そして駅までの旧街道を散策したりして観たりしてきた。

私の住む地域は、染井吉野(ソメイヨシノ)の櫻が最初に咲き始めると、
その後に山櫻(ヤマザクラ)、最後に八重櫻(ヤエザクラ)が咲くのが、平年の慣(なわら)わしである。

こうした中で、三分咲きに心を寄せたりした後、
やがて、染井吉野(ソメイヨシノ)は満開となったりし、愛(めでた)りしてきた。

まもなく野川の櫻並木の遊歩道を歩いたりすると、
早くも花びらが散乱して、歩道の脇には絨毯のように花びらが重なっていた。

私は立ち止まり、数多くの櫻花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり微風が吹くと、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下している。
古来より、櫻の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

私は櫻花に関しては、3分咲きに魅了されるひとりであるが、
やはり花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散る光景に美を感じてきた。

このような情景に私は見惚(みと)れてたりしていたが、
遥か1000年前の人たちも、私のように感じる人が多いかしら、と思わず微笑んだりしてしまった。

私は櫻花を観る時、齢ばかり重ねた身であるが、
今年も余生の中で、天上の神々の采配で生かしてもらっている、と思いが強く、
毎年、花衣(はなごろも)の情景を眺めていると、過ぎし日々に愛惜を重ねたりしている。

このように思ったりした後、野川の水の流れを見たりした。
川面は陽春の陽射しを受け、光を帯びながら清き流れとなっていた・・。
そして川辺に枯れた薄(すすき)の群生に、櫻花が重なっていて、
やがて水の流れに巻き込まれ、花筏(はないかだ)のように下流に向かい、ゆっくと流れていた。

この後、私は野川の歩道を離れ、小路を歩くと、
ある旧家の農家だった家の敷地の中、
青空の中に聳(そび)えるように淡き色合いの大きな山櫻(ヤマザクラ)に出あったりした。
そして、このようなところに山櫻があったことは知らなかったよ、と思いながら私は足を止めた。


ここ過ぎきった2週間、やはり野川の遊歩道を歩いたり、小公園を歩き廻ることが多かった。
この時節を迎えると、野川の遊歩道の下方の川沿いには、
黄色い帯のように長く続いている菜の花、
そして並ぶように白と薄紫の大根の花のような白と薄紫色の花色が帯状になっているのを
菜の花のかぐわしい香りに心を寄せたりしてきた。

或いは小公園を歩いたりすると、
新緑となった欅(ケヤキ)、コナラ、クヌギなどの大きな雑木を見つめたり、
ときおり微風が吹き、小枝の若葉も揺れ、私は微笑んだりしたりした。

そして道路際にある朱紅色や紅色の躑躅(ツツジ)、皐月(サツキ)は早くも咲き始めたり、
純白の耳飾りのような可愛らしい花のドウタン・ツツジも咲き始め、
その付近には菖蒲(あやめ)の群生は新芽が赤味を帯びている中、
華麗な白い花が咲いているのを眺めたりすると、
まもなく大型連休の時節になる、と教示されたりした。

そして萌木色した葉の中で純白の花水木(ハナミズキ)の樹に、
私は足を止めて、長らく見つめたりした・・。

このように私は若葉の色合いに見惚れ、
萌黄色からこの二週間ばかりで黄緑色から新緑色に染められ、
私はさりげない日ごとに移つろう枝葉を眺めたりしてきた。

この時節、快晴に恵まれれば、空は青さ一色となり、
ときおり微風が吹くと薫風かしらと感じたり、風光る情景に身も心も寄せたりしてきた。
ときには陽射しは初夏のような感じで、この時節にしては強いかしら、と思いながら、
少しばかり大きなモミジの幼い葉を拡げた下で緑陰で、身を寄せたりした。

そして雨が降った翌朝は、樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい潤(うるお)いのある情景となり、
ときおり眩(まばゆ)い陽射しを受けて、数多くの新緑の葉はキラキラと光り帯びたりしているので、
私は微笑んだりし、つたない私でも新緑に心まで染められている。

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