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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

思わず、見惚れてしまった『今夜も一杯 酒の肴 写真特集』・・。

2009-08-14 17:33:02 | 食べ物、お酒
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ていたら、

【 今夜も一杯 酒の肴 写真特集 】

と題された写真特集が掲載されていたので、思わず見惚れてしまった・・。

時事通信社のネット基幹の【時事ドットコム】の特集のひとつであるが、
固いと定評のある時事通信社が、このようなサービスをして下さり、
古い言葉で表現すれば、感謝感激かしら、と思ったりしたのである。

私は15分ばかり眺めたりしたのである・・。
そして日本酒の辛口に最適と思ったりしたのであるが、
私は無念ながらメタボの研修中の身であり、麗(うら)らかな若き女性の保健医さんと、
指きりの約束をしているので、
ビールの350mlの缶で2本までですょ、と優しく指示されたので、
旅行の時以外は殆ど守っている。


そして眺めていたら、この酒の肴は高そう、と年金の我が身を振り返ったのである。

http://www.jiji.com/jc/d2?p=fod00101-04433028&d=004ent

平素は家内が夕食の時に、私の晩酌用に数品を食卓にのせたりしてくれたり、
家内が実家に支援し留守になった時は、
私はスーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、頂いたりしているが、
程ほどの価格である。

旅行先は別格であるが、平素は我が家のイベントとして、
ときおり『お祝い』と称して、ほんの少しばかり背伸びする程度である。

我が家はもとより民主党・代表されている鳩山由紀夫氏のように有り余るお金もないし、
私は羨望と嫉妬の余り、いいよなぁ、生活苦も体験したことのないお坊ちゃま一筋だし、
と思ったりしたが、
しかし、私はあのお方のように多忙と重責の身でないので、
好きな時に本を読めたり、眠くなったら昼寝もできる、と苦笑したのである。


尚、私の好きな魚はイワシ、サンマ、アジ、サバ、ホッケ等の大衆魚だったり、
肉類はレバー、砂肝などであり、庶民の子と微苦笑したりしている。

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岸洋子さんの『夜明けのうた』、『希望』の私なりの想いで・・。

2009-08-14 14:55:06 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の64歳である身であり、
昨夕、読売新聞の夕刊でテレビ番組表を見ていたら、
NHK衛星第二で夜の7時45分より『昭和の歌人(うたびと)たち ~いずみたく』が放映されることを知り、
夕食を頂いたり、ネットのニュースを見たりして視聴した・・。

この番組は故人となった作詞家・作曲家の作品を特集するシリーズ番組で、
今回は作曲家として数多くの名曲を遺されたいずみたく氏特集であった。
もとより、いずみたく氏は『恋の季節』、『見上げてごらん夜の星を』、『世界は二人のために』等、
数多くのヒット曲を作詞した才人であったが、特に私が注視したのは『夜明けのうた』、『希望』であった。

この番組で『希望』を唄われたのは、無念ながら私にとっては未知の姿月あさとさんであったが、
歌唱力も乏しく、何よりに若いので人生経験不足が露呈した表現力となり、
失望を感じたのである。

番組の終わりの間際に、梓 みちよが『夜明けのうた』を唄われたのであるが、
圧巻ひと言であった。
もともと私はこのお方の『こんにちは赤ちゃん』、『二人でお酒を』等は苦手であったが、
番組の半ばで『ベットで煙草を吸わないで』を唄われて、
みちがえるほど歌が巧(うま)くなった、感じたりしていた。

梓 みちよが唄った『夜明けのうた』は、
鍛錬を積み重ねたと思われる歌唱力、何よりもこの歌に託された思いを感じ取り、
そしてご自身の歩まれてきた人生の軌跡を全てこの歌で発露されたように感じ、
稀(ま)れに見る人に感動を、私のように感銘を受けた『夜明けのうた』となった。


この後、居間にある音楽棚で一枚のCDを抜き取った。
『「希望」よ永遠に いずみたく作品集』であり、
キングレコードより1992(平成4)年8月5日に発売されたCDである。

『恋の季節』ピンキーとキラーズ、『見上げてごらん夜の星を』坂本 九、『世界は二人のために』佐良直美、
そして『夜明けのうた』、『希望』岸洋子・・等の11曲が収録されたアルバムであった。
このアルバムは当時としては、いずみたく氏の功績をたたえて、
ビクター、東芝の音源協力を得て構成された異色アルバムであった。

このような思いもさることながら、
私は岸洋子さんの『夜明けのうた』、『希望』を聴いてしまったのである・・。


東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋の頃、
私は大学を中退し、映画青年の真似事をはじめた時であった。
私は興味がなかったが、この前後には青山和子の『愛と死をみつめて』、都はるみの『アンコ椿は恋の花』、
洋楽としてビートルズ、ピーター・ポール&マリーがラジオから盛んに流れていた・・。
このした中で、何かしら澄み切った希望を託されたかのような岸洋子の『夜明けのうた』も流れたのである。

次兄は大学四年生の時で、所属したクラブの文集の編集をして折、
ある程度完成した時に、私に見せたのである。
表紙、目次に続いて、1ページに於いて、

夜明けのうたよ 私の心に
昨日の悲しみ 流しておくれ

・・
(略)
・・

すべて明記されて、最後の一行に『夜明けのうた』 詞・岩谷時子、
と記されていた。

私は唖然としながら、歌の作詞・・すべて転載しても良いのかしら、
と思ったりしていたが、次兄の高揚した顔を見ると、私は黙り、
ただ作詞家の岩谷時子は才能のある方、と感じたりした。

その後、私は文学青年の真似事をしたりしている時、
岸洋子さんのシャンソン、カーンツォネの名曲がラジオからも流れて、
ときおり聴いたりしていた。

1970(昭和45)年の春、私はある民間の大手企業に中途入社した。
そしてまもなく、勤めていた事業本部の中で、音楽のひとつのレーベルが外資系として独立した。
私はこの独立したレコード会社に転属となり、その後は本社の管理部門のコンピュータ担当として、奮闘していた。

この間、私は余りにも音楽に無知だったので、
月給を頂くたびに、少なくとも自社のLPと称されたレコード・アルバムを一枚以上、
他社のLPも一枚以上、と買い求めて聴いたりしていた。
この中で、他社の岸洋子さんのアルバムが二枚ばかりあった。


確か1972(昭和47年)の初秋の頃だったと思われるが、
日生劇場でリサイタルのライブ盤発売され、たまたま私は購入した・・。

何かしら岸洋子さんは、ご病気で闘病され、病み上がりのカンバックとして、
リサイタルを開催された、とアルバムの解説に綴られていた。

この中で、特に『夜明けのうた』、『希望』は、
生きようとする証(あかし)のように凄烈な唄声を秘め、
少し酒田弁のニァンス、アクセントが混じり、ご自身の本心を発露するかのように、
渾身に満ちた心で唄い上げたのである。
私は聴き終わった後、呆然としながらも涙を流していた・・。

この後の私は、帰宅するたびに、夜のひととき毎晩聴いたりした。

こうした時、会社の部署の慰安旅行があり、
土曜休日の朝、私はこのアルバムを聴いた後、集合場所に行った。
翌日の夕方に帰宅後、自室に入ると、かすかに音がしていた。
私はレコードプレイヤーの上カバーを開けると、
ターンテーブルの上に、カートリッジの針先がこのレコードの最終の周回を廻っていた。
私は30時間の耐久テストじゃ、あるまいし、と自身のうかつさに苦笑したりした。


この後、私は世の中の時流に伴い、カセット、そしてCD、DVDと準拠したので、
レコードプレイヤーは手放し、レコードも興味ある友人に大半差し上げたしたが、
この岸洋子さんのライブ盤を含めた300枚前後は、押入れに休眠している。


私は『夜明けのうた』の歌に関しては、次兄から最初に教えて貰ったのであるが、
次兄は私の30代なかばに自裁され、私は困惑した時期もあった。
そして、『希望』はどのように辛い人生でも、たえず希望という灯火を持ち、生きることが大切なの、
と岸洋子さんのライブから改めて教示されたりした。

私のこれまでのつたない人生の64年の歳月でも、
岸洋子さんの唄われた『夜明けのうた』、『希望』の二曲は、
ときおり思い馳せながら、過ぎ去った苦い想いで共に重ねたりしている。



本来ならば、日生劇場でリサイタルのライブ盤を掲載したいが、
無念ながら、『YouTube』に於いて、最も近い唄声を掲載させて頂く。
そして、天上の女神のひとつの岸洋子さんに、改めてご冥福と感謝を捧(ささ)ぐ。


http://www.youtube.com/watch?v=3GvqIap0Q2U

【『夜明けのうた』 作詞・岩崎時子、作曲・編曲・いずみたく、唄・岸 洋子】


http://www.youtube.com/watch?v=ZYEhJKWSvhA

【『希望』 作詞・藤田敏雄、作曲・いずみたく、編曲・川口 真、唄・岸 洋子】




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