備忘録として

タイトルのまま

敦煌

2008-10-06 22:55:05 | 中国
私の西域憧憬は、幼い頃、”月のさばくを~、はぁるぅ~ばぁるとぅ~”のソノシートの付いた歌の絵本で、夜の砂漠をゆく駱駝の隊商の絵を見てからだったように思う。敦煌、楼蘭、崑崙山脈、甘粛、ゴビ砂漠、さまよえるロブノール湖などの地名、匈奴と戦った霍去病と衛青、大宛に匈奴挟撃を申し入れに行った張騫、李陵と司馬遷、スウェーデンの探検家ヘディンや大谷探検隊など、その後馴染みになったキーワードは多い。
月の砂漠ののち、井上靖の”敦煌”や”楼蘭”、陳舜臣の”中国の歴史”、中島敦の”李陵”、NHKのシルクロードなどがさらに私の西域憧憬を増してくれた。

”トロイア幻想”の敦煌の項で、上原和が長男の名に敦煌の敦を使っていることを知ったとき、私も息子に泰山の泰をつけていることから「同じ発想だ」と狂喜した。しかし、私と上原和が決定的に違うのは、上原和が敦をそのままトンと読ませているのに対し、私は軟弱にも泰をタイとは読ませずヤスと日本読みにしたところで、ここが著名な学者と凡人の根本的な差なのだろうと思ったりする。
ところで敦煌の莫高窟には捨身飼虎図が7つもあるそうだ。

聖徳太子著とされる”勝鬘義疏”と敦煌の莫高窟の文書に見つかった”勝鬘義疏本義”が7割方同じである(藤枝晃)から、聖徳太子作ではないとする説がある。しかし、日本をはじめ東洋では、正しい教えはずっと古くからの教えであるとする考え方が主流であり、多くの引用の中にも自分の考えを述べることがごく普通に行われてきた。親鸞の”教行信証”の約8割は引用であるが、はっきり自分の思想を述べている(梅原猛”誤解された歎異抄”)。少なくとも、梅原猛は”勝鬘義疏”を読み、そこには太子が勝鬘義疏を講義した必然性と憲法十七条にも共通する思想があるとしている。
別項で大川誠一著”聖徳太子の誕生”(聖徳太子は後世に作られたもので、ほとんどの業績は彼のものではないとする。)を私なりに批判したいと思っている。

井上靖の”敦煌”を読んだのは大学1年の夏だったが、読んだ時期とその時の感想が、「異国(西夏)の美女にあこがれた男の末路」というものだったことを、なぜか今も鮮明に覚えている。



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