備忘録として

タイトルのまま

法顕

2013-04-07 18:33:39 | 仏教

法顕は399年数人の仲間とともに長安を発ち、西域を経由してインドへの求法の旅に出る。西域ではブッダも実践していた雨安居(雨期の一定期間一カ所に留まって修行すること)のため旅の中断を入れながら、タクラマカン砂漠を横断しパミールの山岳地帯を超え、403年にやっとの思いでインドへ到達する。その間、仲間は死亡したり中国へ引き返したりと次々と脱落していく。上の行路図は「中国文明の歴史4 分裂の時代-魏晋南北朝」から転載した。

法顕が訪れたときのインドは、マガダ国から興ったグプタ王朝(紀元320~550年)がインド全土を統一し、チャンドラグプタ2世の時代だった。ブッダの後、紀元前300年頃にマガダ国の首都をラージギルからガンジス川沿いのパータリプトラに都を移しマウリア王朝(紀元前317頃~紀元前180年頃)を開いたのもチャンドラグプタという名の王で、その3代目が有名なアショカ王(紀元前268頃~232年頃)である。アショカ王以降マウリア王朝は衰退する。紀元1世紀から3世紀にかけてクシャナ朝が起こり有名なカニシカ王がでる。カニシカ王は仏教を厚く保護しガンダーラ美術などの仏教美術が栄える。

法顕が見た紀元400年頃のインドは以下のようだった。

祇園精舎

祇園精舎のあったかつてのコーサラ国の都シュラーヴァスティに昔の面影はなく、戸数200余のわびしいところだった。法顕は祇園精舎でありし日のブッダを偲んだ。

カピラヴァストゥ

ブッダであるゴータマ・シッダールタの属するシャカ族の首都カピラヴァストゥは廃墟と化しブッダ誕生の地ルンビニーも荒れ果てて訪れる人もいない。ブッダの遺骨を当時の八大国にわけて仏舎利に納めたが、アショカ王はそれをさらに八万四千に分骨する。ただし、ここの仏舎利塔はそのまま残したので法顕が訪れた時も残っていた。

クシナガラ

クシナガラには仏滅を記念する塔が建っていた。そこからブッダが自身の死期を悟ったヴァイシャーリを訪ねる。法顕はクシナガラからブッダ最後の旅を逆回りする。

パータリプトラ

ガンジス川を渡ってマガダ国最大の都市パータリプトラにつく。ゴータマの渡しを逆に渡ったことになる。かつてのアショカ王の首都である。法顕が見たものは以下のような風景だった。立派な宮殿が残り、市民は富栄えている。毎年2月8日に行像(ブッダ像を乗せて練り歩くこと)があり、当日はみなが集まって供養する。富裕者は貧困者や病人に施しをする。都城にはアショカ王が建てた八万四千塔のうちの最初の大塔や周囲一丈五尺、高さ三丈余りの石柱がある。行像とは灌仏会(Vesak Day)のことである。

ラージギル

法顕はラージギルからブッダが座禅した霊鷲山(耆闍崛山ぎじゃくつせん)に登り香華をたむけ、”仏、昔ここに住して首楞厳(しゅりょうごん)を説きたもう。法顕はこの世に生まれて仏にあうことができず、ただ遺跡の諸所を見るのみ。”と慨嘆する。そして石窟前で首楞厳をとなえ一夜を明かす。首楞厳とは弟子が菩提(悟りや智慧)をすみやかに得る法や魔境を遠離する法を尋ねたことにブッダが答えたものである。ブッダも悟りを開く直前の瞑想中に魔境を見た。

その他竹林精舎や鹿野苑などのブッダゆかりの地を巡ったあと法顕はパータリプトラに戻り、そこに405~407年までの3年間留まり梵語を学び経典を集め経や律を筆写する。

法顕はその後ベンガルのタマリッティ国(多摩梨帝国)で2年、セイロン島(師子国)で2年を過ごしさらに多くの経典を集める。411年法顕はスリランカを出港し、バラモン教が盛んな耶婆提国(ジャワ、パレンバン、ジャンビ、ボルネオ?など異説有)を経由し412年に中国の山東省に辿りつく。上の地図ではスリランカからニコバル諸島を経由し、マラッカ海峡を通り山東省の牢山に着いているが、法顕の航路についてはいろいろな研究があり、嵐でアメリカ大陸まで流されたという説さえ存在する。法顕が訪れた5世紀初めにシュリービジャヤ室利仏逝しつりぶっせい)はまだ建国していなかったと思われる。玄奘は法顕の約200年後の629年に中国を出て645年に数々の経典を長安に持ち帰ったが行きも帰りも陸路であった。法顕や玄奘にあこがれインドに行き「大唐西域求法高僧伝」を書いた義浄は671年に海路でインドへ渡り帰路も海路で695年に中国へ戻った。高丘親王(または高岳親王)が天竺(インド)をめざし道半ばで羅越国(マレーシアのジョホール)で薨去したのは9世紀のことである。


最新の画像もっと見る