備忘録として

タイトルのまま

諸葛亮 字は孔明

2012-03-17 18:19:50 | 中国

諸葛孔明は、28歳のとき「三顧の礼」をもって劉備に迎えられる。ゲーム「三国志」で劉備玄徳をプレーヤーとし、新野に根拠をおくと200年に「三顧の礼」のイベントが開始され、孔明を臣下にすることができる。このときの劉備は、荊州を根拠地とする劉表の客将にすぎず、天下の情勢は、曹操が中国北部をほぼ制圧し中国統一のため荊州を目指して南征を始めようとしていたころである。一度は曹操に仕えその後離反した劉備は曹操のもとで生きる道はなく、荊州を逃げ出すか徹底的に抗戦するしかないのである。客観的にみて、劉備の立場は風前のともしびにも近いほど不安定で、曹操によって滅ぼされる危険性は高く、なぜ28歳の前途ある青年がこの状況の劉備に仕えたのか、なぜあえて困難な道を選んだのかずっと疑問に思っていた。彼の才能を考えると曹操に仕え勝ち馬に乗る選択肢もあっただろうし、また孫権に仕えていた兄(諸葛瑾)の伝手で劉備よりは安全な孫権に仕えることもできたはずである。

この若者に、孫権を味方にできるという自信はあったのだろうか。仮に同盟がなったとして曹操と闘って勝てるという確信はあったのだろうか。目の前の危機を脱出できたとしても、曹操に傾いている天下の情勢を変え、劉備を押し立てることができるという勝算はあったのだろうか。

その後の展開は、劉備は孫権と同盟し赤壁で曹操軍を打ち破り、荊州を手に入れ地歩を確保し、やがて蜀漢という政権を建てることに成功し三国鼎立の状況を作り出す。すべてが孔明の筋書きによるものとされ、彼が天下の奇才とか稀代の政治家・軍師と言われる由縁である。

そのあたりの疑問に答えてくれるのではないかと、古本屋で買った植村清二著「諸葛孔明」を読んだ。それは、P76以降「孔明の心事」の章に解説されていた。(植村清二は相当昔に著書「神武天皇」を読んだ。)

劉備の人間性:

”劉備が白面の1青年を三たびまで訪問した雅量と、これに当世の時務を問うた切実な態度とは、人を打つものがあったに違いない。劉備は真率な(裏表のない)精神の持主であるという点で、カーライルのいう英雄たる資格を具えていた。出師表に「是レニ由リテ感激シ、遂ニ先帝ニ許スニ馳駆(ちく=力を尽くす)ヲ以テス」と書かれているように、孔明は劉備の誠実な精神に答えて、彼のために、その全力を挙げて活動することとなったのである。”

孔明の大望:

曹操に仕えればそれなりに地歩を築けたが、孔明がいなくても曹操の事業はある程度成就できた可能性が高い。それは孔明の才能にとっては、”小に過ぎ、また安易に過ぎるものであった。劉備の勢力は小さいが、これを助けて将来の未知の何かを求めることは、さらにいっそう大きい事業である。(その達成には)前途に多くの危険と困難が横たわっているに違いないが、大きい自信を持つ者は大きい艱難を意としない。孔明は、艱難を克服して、自己の大いなる可能性をその限界まで確かめようとしたのである。”

才能ある人間は安定に生きることなど考えもしないし、機会があれば、その前途がどのように困難であたっとしても果敢に挑戦を続ける。ただし、劉備の可能性を見抜いた人間洞察力と当時の形勢に対する戦略眼と判断力があったればこその選択だったのである。

孔明は、劉備が死に臨んで残した”自分の跡継ぎに才能がなければ、君が取って代われ。”と言うのに対し、あくまで先帝の遺児を推戴しつづけた。北伐(魏を攻める)のときの「出師表」には、劉備に対する恩顧、若い皇帝劉禅に対する忠誠、孔明の壮烈な決意が”平明で簡素な文章で語られ”ていて、頭脳明晰な人間にありがちな計算高さや怜悧さは見られない。だからこそ、中国史上で、孔明はいつも張良と並び称される存在なのである。


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