備忘録として

タイトルのまま

ハノイ孔子廟

2011-01-23 17:20:40 | 東南アジア

松江の月照寺で見た亀跌(きふ)のことを書いたときに、ハノイの孔子廟の亀趺に触れた。今回ハノイ出張で孔子廟を再訪したが、15年前の前回訪問時にくらべ孔子廟はきれいに整備され欧米人、中国人、韓国人、日本人ら観光客で大変混雑していた。前回、訪問客は私ひとりで閑散とした崩れそうな建物の屋根には草が生え庭内も荒れて手入れされていなかった。何の興趣もわかない二流観光地だったが、今回は発見がたくさんあって興味が尽きなかった。印象がこれほど違ったのは、廟内の整備や観光客の混雑による表面的なものではなく、私自身の孔子に対する認識と知識の差によることは言うまでもない。

 

亀趺とその上に載る石碑に彫られた文字。”進士”という字が見える。廟内の英語の解説によると、ここは1442年から1779年の337年間開設されたベトナムで最初の大学で儒教を教え、廟内には82の亀趺の碑がある。碑には大学を卒業した人の名前が全部で1307人彫られているという。すなわち進士の試験は約4年に1回実施され1回に平均16人が合格したことになる。

孔子廟の最奥の建物内には孔子像を囲んで4体の像が飾られていた。

孔子とその右手の2体は奥が顔子(顔回または顔淵)で手前が子思。左手には孟子と曽子が並んでいた。孔子の弟子や系統の人々は大勢いるのに、どうしてこの4人なのかわからなかったのだが、ちょうど今読んでいる金谷治の「孔子」によると、”朱子学では、曽子が孔子から極意を授けられたとして、孔子から曽子、曽子から子思・孟子と伝承される道統の説を強調した。”と書いてあった。その中に顔子を加えればこの廟内に全員が揃ったことになる。道統とは儒教の極意(聖人の道)を伝える系譜で、朱子が自分が儒教の正統であると主張するためにとなえた。顔子は孔子よりも先に死んでしまったが、孔子自身が認めた後継者なのでここに並んでいるのだろう。

曽子は、史記の仲尼弟子列伝に、”曽参(曽子のこと)は南武城の人。字は子輿(しよ)。孔子より46歳年少。孔子はかれが孝の道によく通じていると思い、ゆえにかれにその学問をさずけて、『孝経』を作らせた。かれは魯で死んだ。”とだけ記されている。

曽子は孔子と次の問答をしている。(里仁15)

子曰はく、参よ、吾が道は一以て之を貫く。曽子曰はく、唯。子出づ。門人問うて曰はく、何の謂ひぞや。曽子曰はく、夫子の道は忠恕のみ。

孔子は曽子に向かって、「私の道は一つのことで貫かれている」と曽子はただ「唯(はい)」と答えた。門人たちはその意味がわからず、孔子が部屋から出て行ったあとで「どういうことですか」と尋ねると、曽子は「先生の道はただ忠恕だけだ」と答えた。すなわち、忠は内なるまごころで恕は他人への思いやりであり、合わせて仁である。朱子はこの問答を重要視し、曽子が孔子の正統とする。

子思は孔子の孫で、曽子が彼を教育しながら旧宅を管理した。孟子は孔子に遅れること200年で、孔子に深く傾倒し、曽子と同じく仁の思想、忠恕を重んじた。

ところで、白川静の「孔子伝」は難解で原語をそのまま使って書いてあることも多くよく理解できなかった。同じ文章を何度も何度も復誦したが理解を越えた文章が多かった。それに比べると、金谷治の「孔子」は、孔子の人、思想、弟子、その後の系譜が整理され比較的平易な言葉で語られ、孔子を理解する上では非常に有用である。白川静の著書を読むレベルに達していないのに手を出す読者が悪いのだろうが、白川静はそもそも私レベルの読者を相手にしていないのである。そんな浅学非才が金谷治「孔子」のまえがきの以下の一節に救われた。

孔子や論語について書かれた書物はたくさんあり、それらを凌ぐことは至難だろうが、”孔子の人間のはばの広いことからすると、人さまざまな感じかた受けとりかたがそこに生まれるのも、もっともにおもわれる。(中略)わたしはわたしにとって身近く心の通った孔子を描きたいと思う。”


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