備忘録として

タイトルのまま

張良、字は子房

2010-06-20 00:13:09 | 中国
 漢の高祖・劉邦の軍師だった張良を語らずして史記は語れない。史記本紀の帝王や史記世家の王に仕えて功績のあった軍師や宰相は数多いるけれど、秦末の漢楚の戦いにおける軍略と漢王朝初期の政略に発揮した張良の才能は群を抜く。劉邦に従った重臣の多くが失脚する中、権謀渦巻く宮廷において張良は身の処し方を過たず人生を全うした。後年三国志の諸葛孔明は戦場よりも政治の場の才能が優っていたと言われるが、張良は軍略政略双方において抜群なのである。
 
 司馬遷は太史公自序において張良を以下のように称賛する。
“計りごとを本営の中でめぐらし、勝利を無形のうちに決定する。子房(張良)は敵に勝つ策略を立てたが、智者としての名声もなく、武勇による勲功もなく、困難な事を容易な事から考えていき、大きな事を小さな事から行なっていった。留侯世家第二十五を作る―――太史公自序”
青色部の原文は「図難於易、為大於細」で老子のことば

 張良は韓の相の家系に生まれ、韓が秦に滅ばされたあとは復讐のため刺客を雇い始皇帝を付け狙った。劉邦と出会ったあとは軍師として様々な策略を練り項羽との漢楚の戦いを勝ち抜き劉邦に天下をもたらした。劉邦は自分が天下を取り項羽が天下を失った理由として、「策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することではわしは張良に及ばない。民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることではわしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦いに勝つことではわしは韓信に及ばない。わしはこの三人の英傑を見事に使いこなした。しかし項羽は范増一人すら使いこなせなかった。これがわしが天下を取った理由だ」と答えた。
 蕭何は張良が推薦し漢の最初の相国(臣下として最高位の丞相あるいは宰相)となった。史記世家の蕭相国世家第二十三に事績が語られる。戦時下に兵站、兵糧の責任を負い留守を守った。韓信は股くぐりで有名な漢の名将であるが、漢が天下を平定したあと反乱をおこしたため司馬遷は世家に加えず列伝に落とした。

 中国統一後、劉邦は張良の功績に報いるため三万戸の領地を与えようとしたが、張良はそれを断り小さな留の領地をもらった。張良は、「平民として最高の位に上り、自分はこれでもう充分である。願いは人の世の事を捨てて、仙人に従って遊びたい。」として、表舞台から身を引こうとするが、周りが彼を放ってはおかず皇太子の廃嫡問題などで智謀を発揮する。

 張良は智謀だけでなく始皇帝に復讐しようとする執念と情熱、漢の功臣たちが粛清される中にあって身の処し方を間違えない冷静さを併せ持ち、功績に執着せずに人生を全うした。司馬遷ではないが称賛に価する。
 前にも書いたが、息子が生まれたとき、張良の”良”、諸葛亮孔明の”亮”、文天祥の”祥”のいずれかを名前につけようと思ったが、結局熟慮の末、始皇帝、漢の武帝や光武帝、隋の陽堅、唐の高宗と玄宗らが封禅の儀を行った泰山、泰山北斗の”泰”を拝借した。

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