備忘録として

タイトルのまま

大学・中庸

2015-04-26 15:04:28 | 中国

NHK大河『花燃ゆ』の評判は芳しくなく視聴率は10%を切っているらしい。私は視聴率とは関係なく視聴を楽しんでいる。史実にもとづく幕末を背景に、若い志士たちの性格を踏まえ、身近で生身の人間を描く脚本は野心的でレベルは高いと思う。ただ、ドラマの中心にある松陰の妹・文の心情に、私はまったく関心がないので、ドラマとして面白いかどうかは別の話ではある。

安政5年(1858)、幕府は日米通商条約を一方的に結び、松陰はこれを激しく批判し討幕を唱え始める。再び野山獄に幽閉された松陰は、文天祥同様、獄中で国を憂い浩然の気を養っていたが、幕府の弾圧は厳しく、安政6年(1859)に江戸送りになる。江戸に発つ前日、松陰は野山獄から自宅に戻り、弟子たちを前に最後の講義をする。

至誠にして動かざる者は、未だこれ非ざるなり

弟子たちと唱和し、野山獄で高須久子が松陰に贈る手拭いに縫い付けたこのことばは「孟子」で、その意味は”誠を尽くして心を動かさないものはいない”である。ところが、今日の『花燃ゆ』で松陰は至誠をもって井伊直弼の説得を試みるが、井伊の心は動かず松陰は斬首され小塚原回向院に埋葬される。松陰、享年30歳、いわゆる安政の大獄である。

松陰の行動規範は、当時の若者たちが学んでいた儒学、朱子学、陽明学、国学にある。萩の明倫館、松下村塾、野山獄の塾生たちは四書(論語、大学、中庸、孟子)と五経(詩経、易経、礼記、書経、春秋)をはじめいろいろな書物を勉強している。それら儒家の書に加え、兵学書、医学書、さらには禁書だった林子平の『海国兵談』なども読んでいる。森鴎外著『渋江抽斎』の抽斎は松陰らと同じ幕末から明治の知識人で、五経に楽経を加えた六経を読んだうえで、論語と老子の二書を守って修養すれば十分だと言っている。

『花燃ゆ』の志士たちに刺激を受けて金谷治訳『大学・中庸』を読んでいる。

『大学』『中庸』は『礼記』49編のなかにあり、その第31篇として伝えられてきた。『大学』は孟子より古く、孔子の弟子の子思子が書いたとされるが、その内容からは孟子よりあとの漢の時代の成立であろうとされている。『中庸』は孔子の孫である子思(BC483-402)の作だという言い伝えがあると『史記』の孔子世家に書かれている。しかし、本中の語句からは『大学』同様、漢代のものとするのが妥当であるとする。金谷は、中庸前半は史記の記すとおり子思の作で、後半の誠は後年付け加えられたのだろうと推測している。たくさんある儒家の書物の中より、大学・中庸を重要視したのは1200年頃の朱子で、自分が解釈した『大学章句』と『中庸章句』を書いた。

大学 

儒教は自己の修養を求める道徳と人を治める政治を中心とする思想(修己治人)であり、6章からなる『大学』はそれを組織的に簡潔に表現した書物である。大学教育、すなわち大人の最後の総仕上げ教育の目的は、個人の修養を国の政治に連続的に結び付けることである。それは、格物致知から始まり、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下へと進む。格物致知とは、知識を極めるなら物事の理(ことわり)を極めつくすべきだということである。正しい知識を身に着けたなら、意を誠にする。意を誠にするとは、”小人閑居して不善を成す。至らざるところなし”(朱子)なので、悪を戒め誠実になれということである。次に、心を正しくし、身を修める。心を正しくするとは、怒りや恐れや好楽を去り心を平穏にするということである。正心がなって身を修めることができる。身が修まったなら家が平らかになり、家が平らかなら国が治まり、天下は平定される。このように朱子は『大学』の注釈書である『大学章句』を表し修身の根本として致知格物を特に重視する。

中庸

中庸ということばは、極端に走らず中ほどをとることであり、『論語』の中で、”中庸の徳たるやそれ到れるかな”と孔子が讃嘆する。中庸は、アリストテレスの「メソテス」やブッダの「中道」に通じる。書物である『中庸』は、その中庸の徳を解説するだけでなく、後半では中庸の完成の基になる”誠”が重視される。

”天の命ずるをこれ性という” が『中庸』冒頭のことばである。人間の本性は天が命じるもので、本性のままに従っていくのが道である。道を踏み外さないようにするのが教育である。喜怒哀楽が動き出す前の平静な状態を、”中”という。感情の乱れがなく調和がとれていることを”和”という。”中”と”和”を実行すればあらゆるものが健全になる、中と和、すなわち中庸は最高の徳であると孔子は言う。『中庸』の後半、誠が中庸の実践に重要だと繰り返し述べられる。誠は大学にある誠意のことで、孟子の性善説に基づく人間の徳であり、松陰たちが唱和した至誠の誠である。天命の本性=誠であると解釈される。天が命じる人間の本性こそが善にもとづく誠意であるという天命の誠を説くのが本書『中庸』本来の目的であるが、書名を『中庸』としたところに含意があると金谷は解説する。

朱子は『中庸章句』の中で孔子、顔回(顔淵)、曾参、子思、孟子と連なる正当性を主張する。

孔子の”七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)をこえず。”という境地が大学と中庸の目指すところで、私もそうありたいと思っているが、それは平時の個人目標である。松陰は世を憂え信条を曲げずに30歳で刑死した。平天下という目的は同じでも、中庸とは程遠い炎のような志は、70歳の老人の言葉とははるか遠いところにあった。孔子もブッダもアリストテレスも、心の平安を追求したが、平時ならいざしらず、乱世において中庸で人が動き世の中を変えられるのだろうかと思うのである。


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