伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

バカがいないバカな時代

2021年09月24日 | エッセー

  岩波国語辞典 第八版によると──
ばか
①知能の働きが鈍いこと。利口でないこと。また、そういう人。「馬鹿とはさみは使いよう」(使いようによっては役に立つの意)「馬鹿の一つ覚え」(ある一つの事を覚えたのを得意がって、それが当てはまらない時でもいつもそれを言い立てること)「馬鹿にする」(軽く見る。あなどる)「馬鹿になって(=ばかになったつもりで我慢をして)やりすごす」「馬鹿にならない」(あなどれない)▽その度合に着目する時は「馬鹿さ」が使える。「おのれの馬鹿さに腹が立つ」
②まじめに取り扱うねうちのない、つまらないこと。また、とんでもないこと。「馬鹿なことをしたものだ」「馬鹿を見る」(つまらない目にあう)。冗談。「馬鹿を言う」
③役立たないこと。きかないこと。「ねじが馬鹿になる」
④《「馬鹿に」の形で、また接頭語的に》普通からかけ離れていること。度はずれて。非常に。「馬鹿に暑い」「馬鹿正直」「馬鹿丁寧」
⑤「ばか貝」の略──
 とある。団塊の世代に馴染みの梶原一騎『空手バカ一代』の「バカ」は④の派生ではないか。①の「馬鹿の一つ覚え」も外れてはいないが、<一途にひとつの道を貫く>意味にはちがいなかろう。②や③でないことは確かだ。だって、「バカ空手」も「空手がバカになる」も意味をなさない。
 <一途にひとつの道を貫く>ことをバカと仮定すると、昨今はそのバカが消えつつある。
〈林家木久扇の事務所が訴えられる 「木久蔵ラーメン」商標巡り
 落語家、林家木久扇(旧名・木久蔵、83)が考案した「林家木久蔵ラーメン」を製造販売する福岡市の販売会社がこのほど、商標権の期限が切れているのに対価を支払わされたなどとして、木久扇の事務所を相手取り約4200万円の損害賠償を求め福岡地裁に提訴した。〉(今月19日Yahooニュース)
 このラーメンは①には該当しない。能がなければ作れないのだから。②は商標権が設定されている以上、除外。③は売れていたのだから、当てはまらない。しかし、カンニング竹山は「まずくないよ、ただ、おいしくもないけど」と評したが。⑤は具に入っているかどうか知らないが、スルー。となると、残るは④。「落語バカ」のはずが、「ラーメンバカ」にのめり込んだ報いと受け取るほかあるまい。
 『葉隠』に山本常朝はこう記した。
〈芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。何某は侍なりといはるる様に心懸くべき事なり。少しにても芸能あれば侍の害になる事と得心したるとき、諸芸共に用に立つなり。この当り心得べき事なり。(聞書第一)〉
 三島由紀夫は『葉隠入門』で、この一段をこう繙いている。
〈芸は身を滅ぼす──『葉隠』が口をきわめて、芸能にひいでた人間をののしる裏には、時代が芸能にひいでた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。
 現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡(でく人形)となるところに、時代の理想像が描かれている。この点では、芸能人も技術者も変わりはない。
 現代はテクノクラシー(技術者の支配の意)の時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に、いかに派手に、いかに巨大に見えようとも、人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクション(機能)にみずからをおとしいれ、またみずからおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると、『葉隠』の芸能人に対する侮蔑は、胸がすくようである。〉
 「芸は身を滅ぼす」とは「侍バカであれ」との誡めである。余芸は「侍」という「総合的な人格」形成を蔑ろににする。蔑ろにするものを「侮蔑」する痛快を三島は「胸がすく」といった。
 「害になる事と得心したるとき、諸芸共に用に立つ」とは特例条項である。有害の認識あるならばこの限りに非ず、と太っ腹を見せたものだ。それゆえ三島はこの部分をスルーしたのではあるまいか。
 ともあれ武力が無用となった太平の江戸中期にあって、特権階級たる武士は「侍」という孤高の人格を創り上げることにしかレゾンデートルはなくなった。その企ては300年の徳川時代に完成を遂げ、次代へと傾(ナダレ)れ込んでいった。維新は侍たちによって成し遂げられた。
 現代はどうか。官人、公人は私権を放棄することを条件に市民の上位者となった。ならば、現代の「侍」と呼んでよかろう。だから彼らには「公僕」という市民への奉仕以外の余芸は赦されない。裏返せば、余芸で選択されるのも、選択するのも間違っているし有害である。銀幕のスターの人気度と政治家の支持率はまったくの別物である。
 さらに「侍バカであれ」に捻転を加えると、「専門バカであれ」に変ずる。侍のいない時代、「英雄視」される「野球選手やテレビのスター」が特権階級に成り上がる下克上が起こった。今や、④「ひとつの道」を貫くことが「侍バカであれ」と同義となったのである。
 落語家ならば落語を磨け。「落語バカ」ならラーメンなぞ商うはずがない。そのはずがないことをするからしっぺ返しを喰らった。そういう話ではないのか。元より職業に貴賤はなく、選択も自由だ。そんなことを言っているのではない。バカがいないバカな時代を密かに嘆いている。 □