伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

2020年12月04日 | エッセー

 陋屋から大きな川沿いに車で約1時間、市境を跨いでさらに2町を越えたところに「港」という名の地区がある。灯台下暗し、先日新聞報道で初めて知った名だ。大きな川と支流との合流地点にある地区である。支流沿いに家屋が点在し、13世帯35人が住まう。ここが大きな川が氾濫するたびに本流から支流に逆流するバックウオーター現象に泣かされてきたという。長きに亘って築堤は繰り返されてきた。今も続行中だが、一昨年と今年立て続けに豪雨による浸水被害が発生し深刻なダメージを受けた。事ここに至り、ついに持ち上がったのが集団移転計画だ。
 事前防災としての集団移転は国の事業である。国が実質的に94%を負担し、市町村は6%の負担で済む。当初は10世帯以上が移転要件であったが、今年度から5世帯以上に枠が緩和された。現在、港地区では合流地点に近く浸水されやすい5世帯(35人)が検討中だという。     伝来の地である。細々と維持されてきたコミュニティーもある。そこを去るのは断腸の泪を絞っての決断にちがいない。しかし、抜本策は他にはない。おそらく全国各地には同等の対象地が数多くあるだろう。ユヴァル・ノア・ハラリの伝でいくなら、農耕定住生活をはじめたサピエンスの悲しい性(サガ)ゆえであろうか。
 それにしても、なぜ「港」なのであろう。地誌に当たってみると、かつて当地で銅鉱が採掘され積み出し港として栄えたとある。「湊」と称した時代もあったという。川湊である。湊は、船の発着場である港を含めた町や人を意味した。現在では港を一般的に使う。これで、大河とはいえ遥か陸地の奥まったところに港があった訳は解けた。   
 その港へ行ってみた。大河沿いを遡上するのではなく、支流沿いを下った。狭隘な山峡(ヤマカイ)を右に左に蛇行しつつ走ること2時間。やっと「港」に辿り着いた。工事中の護岸が聳え立つように盤踞する。山裾に家屋が散在し、支流は細やかな流れだ。とてもこれが溢れかえり混濁した水魔と化して住処(スミカ)を襲うとは想像しがたい。
 合流地点には巨岩があって、祠が建っている。ひょっとしたら灯火を焚いたか、目印であったか、往時が偲ばれた。河岸の竹林はことごとく薙ぎ倒され水魔の狼藉を印していた。話を聞こうにも路上に人影はなく、しばし佇んだのち港を後にした。
 銅と川港が歴史の遠景に退き、人家は炊煙を途絶え廃屋となり、やがて山襞に同化していくだろう。生き残りを賭けた自然との攻防。護岸のコンクリートが猛々しい塹壕のようにわずかばかりの平地(ヒラチ)を穿っていた。 □