伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ロックなベートーヴェン

2020年12月20日 | エッセー

 以下、ド素人の与太とお聞き捨て願いたい。
 教会や宮廷が召し抱える下部(シモベ)から、音楽として自立する端緒にいたのがバッハであった。それゆえ「音楽の父」と称される。バッハの生年は1685年、日本では5代将軍徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発布した年である。遥か3世紀を隔てる、まことに古色蒼然たる遠景である。のち半世紀余を経て「古典派時代」が訪れ、音楽家は教会や宮廷から袂を分かちその演奏も楽譜も商品化していった。史上初めてのフリーミュジシャンとして羽撃(ハバタ)いたのは「神童」モーツアルトであった。音楽家から芸術家へとトポスが上昇した画期であった。
 続いたのがベートーヴェンである。生涯パトロンを持たず、自らを芸術家と公言した。伝統を継承しつつも今を呼吸し性能が向上した楽器を巧みに取り入れ、奔放に独創的な地平を切り拓いていった。彼が向かい合ったのは教会や宮廷ではなく大衆であった。クラシックのひと言で括ってしまうと隠れてしまうが、大向こうを唸らせようとしたといえる。蓋し、これは革命的ともいえよう。交響曲第5番 ハ短調 作品67の「運命が扉を叩く音」はこの上ない簡明なメッセージではないか。世の上下層を問わず、教養の有無に関わりなく「運命」との対峙を迫る。万言を労することなく、万巻の哲学書を超えて、たった4音が人びとの琴線を掻き毟る。
  交響曲第9番 ニ短調 作品125、つまり「第九」とて同じだ。本邦では年末のジングルであり、ヨーロッパでは「欧州の歌」として歴としたポピュラリティーを獲得している。
 ポピュラリティーとはなにか。大衆性と訳してしまえば身も蓋もないが、世代を問わず社会的位階に拘わらず、知的熟成度をも易々と超える共感性とパラフレーズしてみてはどうだろうか。思想家・内田 樹氏はこう言う。
 〈易しい話でも、書き手と読み手の呼吸が合わないと意味がわからない。逆に、ややこしい話でも、呼吸が合えば、一気に読める。「一気に読める」というのと「わかる」というのは次元が違う出来事である。わからなくてもすらすら読めれば、それでよいのである。何の話かよくわからないのだが、するすると読めてしまうということはある。意味はわからないが、言葉が身体にすうっと「入る」ということがある。ロック・ミュージックで、歌詞は聴き取れないが、サウンドには「乗れる」というのと似ている。そのような読み方の方がむしろ「深い」とも言える。〉(「街場の読書論」から)
 クラシックに造詣はなくとも「運命が扉を叩く音」は聞こえるし、「第九」は欧州を統べ、1年の脱皮を予兆する。それは、「ロック・ミュージックで、歌詞は聴き取れないが、サウンドには『乗れる』」経緯(イキサツ)と符節を合わせるのではないだろうか。だから、楽聖をロックに牽強付会してみたのだ。
 してみるとロックンロールのスタンダード・ナンバーで、チャック・ベリーが歌いビートルズがカバーした“Roll Over Beethoven”(邦題「ベートーヴェンをぶっ飛ばせ」)はなんとも示唆的だ。もちろんクラシックという既存権威をベートーヴェンに擬した宣戦布告であるが、穿てばその起因は抗いようもない高々としたポピュラリティーへの近親憎悪ではなかったか。1969年ウッドストック・フェスティバルで、ロックはアメリカのカウンターカルチャーの頂点を極めた。
 振り返れば、ベートーヴェンの登場もヨーロッパの音楽シーンにカウンターを見舞うものだった。一直線に魂を揺さぶれ! それは“rock”の語源でもある。ロックなベートーヴェンだ。
 はたして今年の第九はなにを告げるジングルとなるか。暮鐘ではなく、暁鐘であれとひたすら祈りたい。 □