伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

免許自主返納

2020年12月15日 | エッセー

 私儀(ワタクシギ)先日運転免許証を返納いたしました。約半世紀、人生の7割を共に過ごして参りましたが、遂に永訣となりました。旭日章様には何度か献金はいたしましたが、ご厄介になったことは一度もなく務めを全うできました。──と、まずは御報告まで。
 敬愛してやまない思想家内田 樹氏はこう語る。
 〈この年になると、あちこちが傷んでくるのは当たり前ですよ。傷んで当たり前で、完全な状態に回復するということはあり得ない。「完全な健康体」という理想状態があって、そこからの減点法で今の健康状態というものを査定して、ここが痛い、ここが悪い、ここが不調だと数えあげていったら、だれだっておもしろくも何ともないです。
 むしろ、今までこれだけ酷使したのに、よくもってくれたな、ありがとう、と自分の体に対して感謝します。自分の体に向かって、なんでここで壊れてしまうんだ! と恨むのと、いやあ、よくもってくれたね、ありがとねっていたわるのとではずいぶん心持ちが違いますよね。
 自分の今の状態に合わせて、いつも「収入」の範囲内で暮らしていけばいいわけで。達成すべき健康状態を自分の体力より上に設定するというのは、身の程を知らない借金をするのと一緒だと思うんですよ。いつもまだ足りないまだ足りないと焦るばかりで、不足分ばかりに意識がいくようになってしまう。
 今の手持ちの身体的リソースを活用して何ができるかと考えるほうが、借金の残額を数え上げるように自分の「まだ治っていない部分」ばかり気にするよりも、楽しいに決まっているわけです。なんでそういうふうにしないのかなあ。〉(「身体の言い分」から抄録)
 池袋の元高級官僚の爺さんが起こした事故に恐れをなしたわけではない。爺さんについては、10月の拙稿「身体の言い分」で触れた。第一、元○○と名乗るほどの○○を欠片も持ち合わせない。冒頭述べたように無事故であったし、今すぐ運転に支障をきたすほどの器官の衰えもない。ただ「『完全な健康体』という理想状態」には遙か遠い。だが、「自分の体に向かって、なんでここで壊れてしまうんだ!」と根に持ってもいない。「ありがとねって」労りつつ、「今の手持ちの身体的リソース」を勘案して「身の程を知らない借金」を回避したのである。約(ツヅ)めていえば、きちんとジジイになるケジメをつけたわけである。これからは被害者になることはあっても加害者になることはない。ずるずるいつの間にかジジイになって運転もままならなくなるのではなく、ままならなくなる前にジジイをオーソライズしてもらったというところか。終活ならぬ爺活である。
 替わりに「運転経歴証明書」なるカードを下賜された(もちろん、有料)。これが笑ってしまう。市町村で違いがあるそうだが、当市では灯油が店頭渡しでリッター3円の値引き。たんびに同乗してスタンドに通えというのか。タクシーが1割引。カード払いならまだしも、高齢化したタクシードライバーに割引計算は余計な負担だろう。路線バス廃止に伴う代替市民バスが半額になるのは少し気が引けるし、宅配弁当1割引もなんだか申し訳なさが先に立つ。ある高齢者施設では体験利用が無料だというが、体験そのものがなんだかなーである。
 車が好きで好きで、年間1万キロ超走っていた時代が10年前まであった。若者の車離れがいわれて久しいが、団塊の世代にとっては車は垂涎のアイテムだった。高度経済成長の高波に乗って「身の程を知らない借金」もできた時代だった。若者風にカッコよくいえば、「年寄りの車離れ」って、あまりカッコよくないか。
 ともあれ、今まで助手席に陣取っていた荊妻が攻守ところを替えてこれからはハンドルを握る。老老連れ立ってあっちへ、こっちへ。珍道中のはじまりだ。 □