伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ウソつきはアベシンゾウのはじまり

2020年12月27日 | エッセー

 旧稿を引く。
 〈ずいぶん古い映画だ。三島由紀夫扮する薩摩藩士・田中新兵衛が罠に嵌められる。暗殺の現場に彼の佩刀が残されていたのだ。証拠の段平を見せられ、改めようとしてそれを手に取るやすかさず腹掻っ捌いて果てるという凄絶な場面が展開する。もちろん冤罪である。しかし嫌疑を掛けられた時点ですでに武士の面目は失われている。この場合、無実の証明はほとんど顧慮されていない。申し開きは無用であり、かつ有害だ。ましてや縄目の恥辱を受けるわけにはいかない。面目を回復する手段はただ一つ。武士のみに許された自死の作法である切腹だ。武士たるを証するには、武士たる特権的手法を鮮やかに振るって死んでみせる以外にないというパラドキシカルな理路がそこにはある。〉(12年5月「卓袱台返し」から)
 佩刀を許される特権的地位にある士には、身に寸鉄を帯びない平民が持つ弁明の権利は付与されていない。特権はアプリオリな権能を放擲することで担保された。
 以下、朝日から。
 〈安倍晋三前首相の後援会が「桜を見る会」の前日に開いた夕食会の費用を安倍氏の私費から補塡していた問題で、安倍氏は25日午後、衆院の議院運営委員会に出席し、「私が知らない中とは言え、道義的責任を痛感している。国民、全ての国会議員の皆さんに心からおわびを申し上げたい」と謝罪した。〉
 「私が知らない中とは言え」とは言えない。理由は2つ。自らの足元さえも律し得ない管理能力の致命的欠損が露呈したこと。さらに、言い訳は公人には許されないとの自覚が致命的に欠損していること。この2つだ。なぜか? 思想家・内田 樹氏の達識を徴する。
〈通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。官人は「疑われたら罰せられる」。「疑われたら、おしまい」という例外的なルールが適用されるのは、官吏や政治家は「市民」ではないからである。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。だって、当然でしょう? 官吏や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているのである。他人の私権を制限する権利を持つ者に、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかないではないか。〉(「期間限定の思想」から)
 当選後「身の引き締まる思い」とはよく聞くストックフレーズだ。だが、お前たちの薄っぺらな感激や決意なぞ聞いたって一文にもなりはしない。そんなことより、当選の刹那から自らが「疑われたら、おしまい」という「例外的なルール」の適用を受けると肚を括らねばならぬ。「私権を制限する権能」の保持と同時に「私権を認めるわけにはゆかない」立場に身を置く覚悟を定めねばならない。それに無自覚な奴原のなんと多いことか。その典型であり悪しき先導こそアベシンゾウではなかったか。「安倍晋三」とは書かない。もはや固有名を脱し、「無自覚な奴原」のシンボリックな表徴となったからだ。
 「道義的責任」とは何か。法律上の規定がなく法的責任が問えない過ちをいう。如上の「例外的なルール」を踏まえると、「官人」には道義的責任は端っからないと断じ得る。ないというより、自ら放棄した者を「官人」と呼ぶ。使う資格は元々ない。法的規定がないのは、あまりにも当たり前だからだ。人を殺せばこう処罰されるという定めはあっても、人を殺してはならないという法文はどこにもない。だって、法律以前のあまりにも当たり前のことだからだ。同様に「市民」ではない「官人」に私権がないのは、あまりにも当たり前だからだ。「道義的責任を痛感」しようがしまいが知ったことではない。もともと適用除外である。適用の対象となるのは「市民」である。道義的責任とは「市民」が自らの過ちについてエクスキューズする便法である。抵触はしてないが、反省し、今後身を律しますとの宣誓である。市民が有する私権である。市民にしか許されない資格を官人が振りかざすとは、なんとも盗人猛々しい。
 同じく朝日から。
 〈立憲民主党の辻元清美衆院議員は「社長が、公の場でうその説明を100回以上やって、社員にだまされたと言い訳をして通用しますか。社員には責任を取らせて、自分は何も身を切らずに、初心に帰って全力を尽くす。こんなことが許されると思いますか。民間の企業ならコンプライアンス失格、社長は辞職だと思いますよ。これ以上のことを、あなたはこの立法府でやったという自覚がありますか」とただし、安倍晋三前首相に議員辞職を迫った。
 安倍氏は「道義的責任がある」としたものの、「国民の信頼を回復するためにあらゆる努力を重ねていきたい。身を一層引き締めながら研さんを重ねていく」と述べ、議員辞職を改めて否定した。〉
 辻元議員の譬えは官人と市民との混同はあるものの、アベシンゾウが主導した当今の政治のありようを如実に表現している。それは次のようになる。
── 政権 ≒ 株式会社
   首相 ≒ 社長
   官僚 ≒ 従業員
   正当性 ≒ 議席数
   政策の適否 ≒ マーケット
   国民 ≒ 株主 
   国政選挙 ≒ 株主総会
   支持率 ≒ 株価 ──
 会社の運営を決めるのは社長である。トップダウンだ。ボトムアップしていく民主主義とは相容れない。行政権が肥大し他の2権を呑み込む独裁と化したのはそのためだ。かつ株主総会で経営の適否が判断されるとなると当然、当期利益が最優先される。100年の大計どころか、最長で総選挙のスパン、4年間だ。無責任な国債の膨張はそこに起因する。そしてなにより株式会社化した政権にとって最大の関心事は株価ならぬ支持率である。政権が最もセンシティブになる数値だ。論より証拠。野党によって政策が変更されたケースはごく稀で、そのほとんどは支持率によってなされてきた。
 118回のウソについて。
 〈安倍晋三前首相による「桜を見る会」前夜祭に関する疑惑を巡り、衆院調査局は、安倍氏が2019年11月~20年3月に事実と異なる国会答弁を118回していたと明らかにした。質問への答弁を精査した結果、衆参両院本会議と予算委員会で見つかった。〉(毎日新聞から) 
 衆議院調査局は歴とした衆議院事務局の一部局である。118回のウソは公的機関によってオーソライズされたといえる。小池晃共産党副委員長は「118回とは108煩悩、除夜の鐘より多い」と語った。巧いことを言ったものだ。共産党から煩悩や除夜の鐘が出てくるのも驚きだが。
 うそ【嘘】とは字引には、
1 事実でないこと。また、人を騙すために言う事実とは違う言葉。偽り。「嘘をつく」
2 正しくないこと。誤り。「嘘の字を書く」
3 適切でないこと。望ましくないこと。「ここで引き下がっては嘘だ」
 とある。
 当人はウソとは言わず「事実と異なる国会答弁」と強弁するが、2. も3. も該当しない。残るは1. のみである。問題は「人を騙す」意図があったかどうか。意図はあった。なぜなら官人は「疑わしきは罰せず」という法諺が除外される性悪説に立つからだ。官人にとって「事実でないこと」を公言すれば、それはそのまま意図的に作為されたものと見做される。「事実と異なる国会答弁」はすなわち「人を騙すため」と同義となる。
 当人は議員辞職どころか次期衆院選で国民の審判を仰ぎたいと言った。百歩譲って一旦辞職して後ならまだ解るが、地位に恋々としがみつくさまは十八番の「美しい日本」とはまったく似ても似つかぬ。おまけに「国民の審判」といっても、父祖伝来の地盤である山口4区の話ではないか。間違っても「国民の」とはいえない。大言壮語どころか、限りなくウソに近い。
 「ウソつきはドロボウのはじまり」と俚諺は訓(オシ)えるが、今や「ウソつきはアベシンゾウのはじまり」である。まだカウントされていないが、モリカケを勘定に入れるとウソは118回どころではるまい。だから、子どもたちには正確な俚諺を伝えたい。「ウソつきはアベシンゾウのはじまり」、ウソばっかり吐いているとアベシンゾウという人で無しになるぞ、と。碌でなしはまだいい。救う余地がまだあるが、人で無しはお天道様が許さない。歴史に拭い難い汚点を残し藻屑となって見限られ、見捨てられていく。それでは人生台無しだ。生まれた甲斐がないではないか、と。 □