伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

今日はこれぐらいにしといたるわ!

2017年12月02日 | エッセー

 チンピラに囲まれてボコボコにされる。
 やおら立ち上がり、
「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ!」
 チンピラ一斉にズッコケる。

 お馴染み吉本新喜劇、池之めだかの鉄板ギャグである。
 毎度のことではあるが、某国首相は「国民の生命を守るため万を全期す」とストックフレーズを繰り返す。此度(コタビ)のNKミサイルもそうだ。先だっての選挙では、「この選挙は北朝鮮の脅威から、いかにして国民の生命と幸せな暮らしを守るのかを決める選挙です」と呼ばわった。「幸せな暮らし」と勝手に決めつけるとは、一体何を根拠に言っているのか耳を疑う。ついこないだ「保育園落ちた 日本死ね」が話題になったばかりではないか。刻下本邦が抱える「不幸せな暮らし」が「幸せな暮らし」を圧倒的に上回っていることは、真っ当な頭脳の持ち主であれば容易にかつ瞬く間に断定できる。
 それにしても、である。「国民の生命」と「暮らし」は本当に守られているのか? 
 EEZ内への落下はこれで7回に及ぶ。EEZ(排他的経済水域)とは国連海洋法条約に基づく沿岸から200海里(約370㎞)内に設定されるエリアである。その水域では海上、海中、海底及び海底下にある水産・鉱物資源と海風などによる自然エネルギーについて探査、開発、保全及び管理を独占的に行う権利がある。主権が及ぶ領海ではないものの、経済については他国の侵害を排除する権利を持つため「主権的権利」と呼ばれる。つまり、自国の漁船なら漁ができる。他国の漁船は入っても構わないが、漁をしてはいけませんということだ。だから日本の船は大手を振って魚を捕れる。現に捕っている。そこにミサイルは落ちた。これで漁民の「暮らし」は守られているといえるのか。「主権的権利」は維持されているといえるのか。7回の落下時にたまたま本邦漁船がいなかったから事なきを得たが、「国民の生命」が奪われたかもしれない。いや、「国民の生命」が危機に晒されたことは疑いない。だから、事実上「北朝鮮の脅威から」「国民の生命」と「暮らし」は守られていないのだ。それをあたかも「これから」の話にする。起こったことに蓋をして、これから起こるかもしれない話にする。これはレトリックではなくトリックではないか。池之めだかの鉄板ギャグそのものである。ボコボコにされたことは認めず、相手の捨て台詞を横取りする。「これぐらいにしといたる」はボコボコにした側のチンピラが言う言葉だ。「フクシマはアンダーコントロール」を筆頭にする某首相の詭弁と瓜二つだ。丸め込まれてはならない。Jアラートや頭を保護して頑丈な建物に避難などの対応マニュアルは危機を煽る、あるいは危機に蓋をする目眩ましだ。地下シェルターならまだしも、子供だましに過ぎない。米軍の本土上陸に備えた竹槍作戦よりもなお程度が低い。
 「わたしどもの対応ではNKの脅威から国民の生命と暮らしが守られま“せんでした”。戦略を練り直します」というべきではないのか。「圧力外交は愚策でした。何の効果もありませんでした」と認めるべきではないのか。なのに、ボコボコにされているのになおも高飛車に出る。池之めだかとまったく同等の思考回路である。ただし向こうはギャグ。こちらは本気。オー・マイ・ガアッ! だ。
 佐藤 優氏はこう述べる。
 〈反知性主義を簡単に定義するなら「実証性や客観性を軽視もしくは無視して自分が欲するように世界を理解する態度」です。新たな知識や知見、論理性、合理性、客観性、他者との関係性などを等身大に見つめる努力をして世界を理解しようとせず、自分に都合のよい物語にこだわるところに反知性主義の特徴があります。〉(「あぶない一神教」から)
 敵(カタキ)同士は互いに似てくるという。NKのボスも当方の一強さんも妙に似てくるから不思議だ。だからといって下々まで似せるわけにはいかない。
 ……といったところで、
「よっしゃ、今日はこれぐらいにしといたるわ!」 □