伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

昭和、平成、そして

2017年12月18日 | エッセー

 先日更新した免許証には期限が「平成32年」と記してある。元号表記である以上やむを得まいが、平成はあと16ヶ月で幕を閉じる。昭和はいよいよ遠景に退く。来年は昭和では93年、大正は遙か僻遠だ。
 はたして元号は時代を表徴するのだろうか。思想家・内田 樹氏は「世代的記憶」、「共同記憶」についてこう語ったことがある。
 〈一九六〇年代のはじめにリアルタイムでビートルズを聴いていた中学生なんかほとんどいなかった。にもかかわらず、ぼくたちの世代は「世代的記憶」として「ラジオから流れるビートルズのヒット曲に心ときめかせた日々」を共有しています。これはある種の「模造記憶」ですね。記憶というのは事後的に選択されるものであり、そこで選択される記憶の中には「私自身は実際には経験していないけれど、同時代の一部の人々が経験していたこと」も含まれると思うのです。含まれていいと思うのです。自分が身を以て経験していないことであっても、同世代に強い感動を残した経験であれば、それをあたかも自分の記憶のように回想することができる。その「共同記憶」の能力が人間の「共同主観的存立構造」を支えているのではないかと思うのです。〉(「東京ファイティングキッズ・リターン」から抄録)
 戦争、高度成長、バブルは「私自身は実際には経験していないけれど、同時代の一部の人々が経験していたこと」といえる。あるいは、「“先行世代”が経験していたこと」といえる。しかし「同世代に強い感動を残した経験であれば、それをあたかも自分の記憶のように回想することができる」とすれば、「強い感動を残した経験」をあたかも「“その時代”の記憶」として「回想することができる」のではないか。過去の「強い感動を残した経験」を「事後的に選択」された「模造記憶」として時代の区割りに使えるのではないか。それは附会というより、「共同主観的存立構造」に適うものといえよう。その逆はないにしても(まさか元号が時代を規定はしないが)、元号は時代を表徴し得る。「昭和」と聞いただけで「共同記憶」が喚起されるように、さて「平成」はどんな「世代記憶」を呼び起こすのだろう。昭和の二の舞だけは避けたいのだが。
 次代といえば、今年の新書ベストワンには講談社現代新書『未来の年表』を一推ししたい。拙稿では8月に同名のタイトルで取り上げた。著者河合雅司氏は人口減少を「静かなる有事」と呼ぶ。ノイジーな有事にはやってる感を装っても、音も立てずに忍び寄る有事には目をつむる、というか見もしない永田町の面々にとても未来を預けるわけにはいかないだろう。
 飛躍するようだが、酉年の仕舞に歴史を鳥瞰してみたい。
 社会の主導的、基底的価値観で時代を大括りするとどうなるか? ぶっちゃけていえば何を最優先にするのか、である。社会のモチベーションに何があるか? 『○○大事』の○○である。腰だめもいいところだが、さあお立ち会いである。
◇ヒメ・ヒコ制を抜けて古代国家の成立から江戸末期まで──上一人(カミイチニン)より下万民(シモバンミン)に至るまで、雲上人、殿上人から水呑百姓に至るまで『お家大事』の時代であった。世継ぎがいなければ婿を迎える。娘もいなければ取子取嫁。「家」の存続こそが最優先課題であった。天皇家の系譜、藤原氏の栄華、平家の盛衰、戦国、幕藩体制。すべてのリソースは「お家大事」に注がれた。日本史のほとんどは「お家大事」の時代であったといってよい。
◇明治維新から敗戦まで──「家」から『お国大事』の時代へ。日本史に日本列島と等身大の「国家」がはじめて出現した。欧米の植民地支配に対し「お国」を鎧うことで抗した時代だ。しかし緊急避難は常態と化し、やがて暴走を始め、遂に破局に至る。死を鴻毛の軽(カロ)きに比(ヒサシ)す。累々たる屍と潰滅した国土だけが残った。
◇敗戦後から平成──アメリカが乗っ込んできて「お国」は退き、『お金大事』へ。高度経済成長、エコノミック・アニマル、Japan as Number One。金権政治、やがてバブルに。だがバブルは弾けても、依然「お金大事」は続く。安全神話は潰えても、まだ懲りない面々は原発をまたしても動かそうとする。なんのことはない。「お金大事」が大手を振っているからだ。ブラック企業は若い血を吸い、大企業は安全を棚上げにしてコストを削る。少子高齢化という必然の流れ。今や独身者は大人人口の半数となり、一人暮らしは全世帯の4割となった。「お家大事」なぞ今は昔。研究者・荒川和久氏の話題を呼んだ造語「超ソロ社会」の到来である。さらに、見えてきた資本主義の終焉。パラダイムシフトが緊要なのに、旧態にしがみつく永田町。病膏肓に入るか、負債を後継世代に先送りして目先の「お金大事」に狂奔するアホノミクス。おまけに、「お国大事」に先祖返りする魂胆まで露わになってきた……。
 と、まあこんな具合である。
 『人間大事』こそ大事中の大事のはずだが、人類史上未だ実現されてはいない。これ以上の当たり前はないのに、なんだかんだと理屈をつけては後回しにされてきた。見果てぬ夢か、まぼろしか。うかうかしていると、万物の霊長の座を“ポスト・ヒューマン”(今月8日「シンギュラリティ」参照)に乗っ取られてしまう。 □