伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

シンギュラリティ

2017年12月08日 | エッセー

 情報テクノロジーは指数関数的に変化し2029年にはコンピュータが人間の知能を超え、2045年までにはシンギュラリティを迎えると予測するのはアメリカの未来学者レイ・カーツワイル氏である。シンギュラリティ(技術的特異点)とはAIと人類が融合し、人類が生物学的思考能力を超えて新たな無限の進化過程に入る時点をいう。団塊の世代に馴染みの言葉でパラフレーズすれば、『一点突破全面展開』の“一点突破”ともいえよう。
 AIを使うといっても、ただ使うのではない。人間の体内、脳内に組み込まれるという。
 〈AIの重要なアプリケーションは、われわれの神経系つまり脳に入っていって、あたかも実際に目や耳や皮膚から情報を受け取ったかのような感覚を提供し、ヴァーチャル・リアリティー(VR=仮想現実)ないしオーグメンテッド・リアリティー(AR=拡張現実)を、脳内に構築することです。
 新皮質の最上層をクラウドにつなげる。つまりクラウドの中には、人工的な新皮質が存在することになります。これは脳の新皮質と同じ働きをしますが、ちょうど200万年前に、突然、脳の新皮質拡大が行われたのと同じように、新たな量的拡大をするわけです。〉(NHK出版新書、吉成真由美インタビュー・編「人類の未来 AI、経済、民主主義」から)
 と彼は語る。約200万年前突如サピエンスの前頭葉が拡大した。伴って頭蓋骨が郭大して出産のリスクが高まったが、それを超えてサピエンスは新皮質を拡張した。これによって言語が誕生し、アートや音楽がそれに続いた。そのいわば太古のシンギュラリティが再来するというわけだ。
 吉成氏は、
 〈人類が遺伝学、ナノテクノロジー、ロボット工学などを取り入れることで、「ホモ・サピエンス」という存在から、知能、身体能力、判断力などを飛躍的に伸ばした「ポスト・ヒューマン」という存在になっていくこの急速な流れは、もはや止められないとも言われる。〉(上掲書より)
 と述べる。本年1月の拙稿『サピエンス全史』で取り上げたユヴァル・ノア・ハラリ氏も同著で「超ホモ・サピエンス」という表現で同趣旨の論究をしている。人類は自然選択に替えて生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学を駆使して新しい進化の過程に入るとし、
 〈未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。
 今日、ホモ・サピエンスは、神になる寸前で、永遠の若さばかりか、創造と破壊の神聖な能力さえも手に入れかけている。〉
 と将来を展望した。
 吉成氏はポスト・ヒューマンを望見して幸福感が変わるのではないか、あるいはその問いかけ自体が無意味になるのかと自問し、テクノロジーに対し進歩の方向をコントロールするしかないのかと戸惑いを隠さない。
 一方、吉成氏はシンギュラリティへのオブジェクションも紹介している。「21世紀の世界の良心」と呼ばれるアメリカの哲学者ノーム・チョムスキー氏の洞見である。
 〈AIの業績というのは、膨大なデータとコンピュータの高速な計算力に頼ったもので、それらは、何を求めるべきかを知っている人間がデザインしたプログラムによって、ガイドされているのです。
 実際の知能の働きとはかけ離れています。やってはまずいということはないですが、ブルドーザーだってあったらまずいということはないですから。しかし、これが何かまったく新しい知能になるという見方には、まるで根拠がないと思います。
 人間の話となると、「シンギュラリティ」などと称して、まったく非理性的になってしまう。われわれは他の生物を考える場合は、非常に理性的なんだけれども、自分たちのこととなると、突如として非理性的になってしまう傾向があります。〉(「サピエンス全史」から)
 「自分たちのこととなると、突如として非理性的になってしまう」とは鋭い。なぜだろう? やはり一神教ではないか。被造物が創造主の玉座を奪わんとする。絶対の禁忌を超える蠱惑のとまどい。遂に創造の領域に歩み込もうとする罪悪のうずき。それらふたつの昂揚が綯い交ぜになって理性を押し黙らせてしまうのではないか。「創造説」の横領は神への謀反である。理性を捨てねば叶わぬことだ。
 それに比し、立つ世界が違う養老孟司氏は実に単刀直入だ。
 〈道具だったはずのコンピュータがなぜ人を置き換えるのか。コンピュータにできるようなことしか、ヒトがやらないからであろう。〉
 と近著「遺言」(新潮新書)で語る。鷲掴みにして投げ捨てるかのようだ。シンギュラリティについては、
 〈いまのわれわれが考える程度のことはすべて考え、理解してくれる。さらにその上に、現在のわれわれが理解できないことまで、ちゃんとやってくれるヒトを創ることができれば、現代人は用済みである。論理的にはこれで話はお終いである。どうするかって、それ以上考えても意味はない。あとのことは、そうして創られた神様に考えてもらえばいいからである。コンピュータの世界におけるシンギュラリティーを心配するなら、人類の全知全能を傾けて、「人神」を創った方がよほどマシではないか。〉
 末尾の啖呵はなんとも豪快だ。昨年5月の愚案『先駆的ラッダイト』に逆説的に通ずるようで意を強くする。愚稿にはこう記した。
 〈ホーキングが警告した通り、「真に知的なAIが完成することは、人類の終焉を意味する」。クライシスを回避する手立てはあるか──。
 そうだ、「創世記」だ。今のうちにAIに徹底的に学ばせる。聖典にはじまり関連文書を少なくとも「10万」点は入力し、自己学習を最低「3千万回」させる。“ディープラーニング”だ。つまり原罪を深々と刷り込んでおくのだ。AIに原罪を背負(ショ)わせる。〉

 遅ればせながら、今カズオ・イシグロを読んでいる。代表作『わたしを離さないで』で、頻りに「シンギュラリティ」が浮かんできた。もちろんクローンとは異なる。しかし、神ならぬ人を問うことは同じだ。クローンからの逆照射か、シンギュラリティという名の暁闇への照明弾か。避けては通れない。 □