伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

今年の一言

2017年12月24日 | エッセー

 世阿弥は『花鏡』に芸の奥義をこう記した。

 当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし。

 「初心不可忘」である。並(ナ)べて、「学び始めた頃の謙虚な気持ちを忘れてはならないという戒め」が字引が示す謂である。原典は細かく初心を三つに別つ。未熟期の初心、成熟期の初心、老熟期の初心。発意(ホツイ)の謙虚、後に慢心の誡め、更に晩節の求道となろうか。
 しかし愚鈍な稿者には長らく隔靴掻痒、なんとなく腑に落ちない一句であった。初々しくあれとは一体どのような心組みをいうのだろう。漠としてとりとめがない。ところが先日、一書が蒙を啓いてくれた。
 安田 登氏。そのものズバリの能楽師である。論語を始め中国古典に造詣が深く、能を軸にした身体運用を説いている。近著『能─650年続いた仕掛けとは』(新潮新書、本年9月刊)にこうあった。
 〈初心の「初」という漢字は、「衣」偏と「刀」からできており、もとの意味は「衣(布地)を刀(鋏)で裁つ」。すなわち「初」とは、まっさらな生地に、はじめて刀(鋏)を入れることを示し、「初心忘るべからず」とは「折あるごとに古い自己を裁ち切り、新たな自己として生まれ変わらなければならない、そのことを忘れるな」という意味なのです。〉
 衝撃の一言(ヒトコト)であった。領解(リョウゲ)への誘起であった。衣を裁断する。作りかえる。つまりはイノベーションである。それで解った。端(ハナ)から仕舞までイノベーションを忘れてはならない、と訓(オシエ)えているのだ。真っ新(サラ)な事始めは当たり前だ。言葉の意味通りだ。問題はその後である。小成に甘んじる、老境に妥協する。そうではなく、常に革新だ。そう世阿弥はいった。重ねて、安田氏は「生まれ変わらなければならない」とする。誤解を懼れずにいえば、かなり具象性をもった誡めといえる。心がけでは済まない。齢(ヨワイ)相応、時代即応の変化を遂げよ。そう励ましている。だからこそ「万能一徳」となり、650年の長寿を保ち得たのではないか。
 だからといって、すぐにコマーシャリズムの骨法に援用したり、「戦後レジームからの脱却」などと短絡するのは世阿弥の原意を貶める。先ずは優れて文化の言葉であり、人間に向けられた錬磨への誘(イザナイ)いなのだ。
 ともあれ、ことし最もインスパイアされたひと言であった。新年間近、着た切り雀にどう鋏を入れるか。悩ましい年の瀬だ。 □