伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

行く年に悪態2題

2017年12月27日 | エッセー

 発覚直後に拙稿で「ひとり相撲」と題して愚案を呈した(先月18日)。
 〈貴乃花と相撲協会との軋轢はつとに知られたことだ。改革への篤い志が、あるいは勘ぐれば権力闘争のルサンチマンがこの件を奇貨可居としたのではないか。親方としての対応と巡業部長としての協会へのそれに整合性を欠くからだ。県警に被害届を出したにもかかわらず、協会への報告がなぜ発覚後になったのか。ここがこの騒動の核心的イシューだ。恣意的というより意図的なサボタージュではないか。協会への面当てか、イメージダウンを狙ったか。もちろん詳しいことは知る由もない。単なる下衆の勘ぐりではあるが、どうもその気配がする。〉
 その後は「核心的イシュー」を巡って泥沼に足を取られたような膠着が続いた。巡業部長としての報告と協会への聴取。メディアスクランブルが起こり、揣摩憶測が乱れ飛んだ。たまたま『ひるおび』を見ていると、八代英輝が法律家の立場からとしてコメントしていた。被害者側に報告義務も聴取に応じる義務もない。暴行現場に居合わせた力士にも等しく報告義務がある。理事会での書面配布は法的対応として理に適っている、と。全知感芬芬のどや顔である。
 と、隣席の福本容子が
「ここ(協会理事会)は法廷ではないんですよ」
 と食らいついた。小生意気な福本がたまにはいいことを言う、と大いに肯いた。
 八代は法曹の高みから、会社だって報告するのは当たり前という世の大勢にオブジェクションを突き付けたつもりだろう。彼にはトリビアルな法律知識はあっても常識が欠けている。この場合、常識は「ここ(協会理事会)は法廷ではない」ということだ。
 内田 樹氏の卓見を徴したい。
 〈「常識」は本質的に期間限定、地域限定です。つねに、あらゆる場所で妥当する「常識」なんて存在しない。「そんなの常識だろ」というのは、ある意味で「鶴の一声」として機能する。議論を打ち切るときの決めの一言なんです。それほど圧倒的な力を持つものであるにもかかわらず、まさにその強大な権限は「今、ここ」でしか通用しないという限定性によって保証されている。僕はそれこそが常識の手柄だと思っているんです。地域限定・期間限定という条件を受け容れる代償に、その場限りの決定権を委ねられる。〉(祥伝社「変調『日本の古典』講義」から抄録)
 相撲協会に「地域限定・期間限定」の「常識」があるという前提を認めないのなら、協会を離脱するほかあるまい。だから「ひとり相撲」だといったのだ。真に協会の変革を企図するなら常識に適った大人の対応が必須だ。駄々をこねて親を呼んでくるのは子どもの対応だ。「限定性によって保証されている」ことこそが「常識の手柄」である。大人はその「限定性」を変えることにリソースを注ぐ。時を作り、時を待つ。それが大人の知恵だ。だって限定的とは可塑的と同意であるから。
 言い忘れたもう一つの常識を加えておきたい。巡業部長の責任を報告や聴取に矮小化してはならない。マスコミはこの一点にのみ終始しているかに見えるが、巡業中に不祥事が起きたこと自体が巡業部長の責任問題ではないのか。こちらの方こそ本筋であろう。真の責任とは不祥事が「起きた」ではなく、不祥事を「起こした」と捉える姿勢にこそあるのではないか。相撲道を揚言するなら、いうところの「品格・厳格」には責任の自覚が含意されているはずだ。巡業の指揮官としての不明、不徳に先ず恥じ入るべきではないか。寡聞にしてこの論点を聞かない。聴取で彼は「巡業部長としての責任は果たした」と応じたそうだ。相撲道から一番遠いのは彼ではないか。

 これも瞥見した『林修先生が驚く初耳学』での一齣。山尾志桜里議員の不倫疑惑について、プライベートなことを論うのではなく議員は仕事をするかどうかが大事です、とコメントした。会場は意表を突く発言に納得の頷き。こちらは、つくづくこういう手合いが世論をミスリードするのだと怖くなった。
 彼についてはかつて愚稿で、「知識をネタにした御座敷芸、トリビアルな物知り居酒屋談義」と断じたことがある(15年12月『ジーニアスではないだろう』)。証拠に、溢れるほどの知識があるのに何も発信しない。世にものを問わない、訴えない。たまに物申すとこんなトンデモ発言である。トリビアに驚きはしても、感動はしない。所詮は予備校の講師である。カズオ・イシグロの『日の名残』に次のような一節がある。
 〈まことに言いにくいことながら、最近、お家どうしが──それも最高の家柄を誇るお家どうしがつまらないことで競い合うケースがあるやに聞いております。たとえばハウス・パーティなどで、まるで猿回しの猿のように執事の「芸」をみせびらかすといったたぐいのことです。私自身、あるお屋敷でまことに遺憾なケースを目にいたしました。お客様がわざわざベルを鳴らして執事を呼びつけ、これこれの年のダービー優勝馬はなんだったかなど、手当たりしだいに質問を投げつけては答えさせておりました。そのお屋敷では、どうやら、それが余興の一つとしてまかり通っているように見えましたが、そのようなことは、見世物小屋で記憶男がやることではありますまいか。〉
 TVという「見世物小屋」の「記憶男」。言い得て妙だ。夏だったか、Googleで試したことがある。放送1回分すべての質問をググってみた。全部回答が異論、反論を含め出てきた。つまりは、Googleで十二分に代替可能なのだ。「林先生!」そんなレベルでどや顔はおよしになったほうが賢明では。
 それにしても、件(クダン)のコメントは看過できない。芸人や職人なら浮気も芸の肥やしになるであろうが、議員はそうはいかない。決定的な違いがある。それは権力の行使に関わるからだ。市井の職業との根本的な相違はそこにある。たとえ共同的幻想ではあっても「選良」、選ばれし良き高潔なる者に権力を委ねるというパラダイムを私たちは採用している。彼らは選良であることがなによりも前提となる特殊な職業なのだ。なぜなら権力を行使する権限を賦与するからだ。だから選択を誤った場合に備え期限を切っている。それほどに権力は重い。まかり間違えば膏血を絞り国民を塗炭の苦しみに追い遣ることも、国土を戦渦に巻き込むことだってできる。そんな決定もしくは決定の阻止を“非”選良に託すことはできない。代議制とはつまりそういうことだ。「仕事ができれば」とはまことに浅慮という以外ない。核心的知性が抜け落ちている。「林先生!」その程度ですか! と、嘆かざるを得ない。
 八代、林両人を並べると、論語の「君子は器ならず」という訓戒が想起される。「器」とは用途がひとつに限定されることを指す。字引には「教養を兼ね備えて人の上に立つ者は、限定された一つの能力に偏ることなく、全てに対し幅広く自由にその才能を活かすべきである」との謂が記されている。この訓戒に照らすならば、この2人を君子とは呼べまい。まあ、なる気もあるまいが。
 さて、行く年の締め括りに分不相応な悪態を吐(ツ)いた。来る年は吐く相手がいないよう願いたい。皆様、どうぞよいお年を。 □