伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

世間と節度

2015年01月20日 | エッセー

 フランスのある識者が「フランスで『私はシャルリーではない』とは自由に言えない。二重基準だ。表現の自由はどこだ」と語ったそうだ。民衆が自らの血で権力から勝ち取った「表現の自由」はフランスの生命線である。イスラムにも絶対の禁忌がある。シャルリー・エブドが両者の全面対決を誘(イザナ)った。
 そこで、想起されるのが養老孟司氏の次の洞見である。
◇世間と思想は補完的だ。それなら世間の役割が大きくなるほど、思想の役割は小さくなるはずである。同じ世間のなかでは、頭の中で世間が大きい人ほど「現実的」であり、思想が大きい人ほど、「思想的」なのである。ふつう「現実と思想は対立する」と思ってしまうのは、両者が補完的だと思っていないからである。これは思考には始終起こることである。男女を対立概念と思うから、極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく、両者を合わせて人間である。同じように、ウチとソトを合わせて世界であり、「ある」と「ない」を合わせて存在である。私は、「反対語」という、ありきたりの概念はよくないと思う。基本的な語彙で、一見反対の意味を持つものは、じつは補完的なのである。異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は、日本に比べて、よくいえば「世間の役割が小さい」、悪くいえば「世間の出来が悪い」のである。「自由、平等、博愛」などと大声でいわなければならないのは、そういうものが「その世間の日常になかった」からに決まっているではないか。◇(ちくま新書「無思想の発見」から)
 快刀乱麻、いかにも養老節だ。土地、人種、階層、言語、宗教などの素因が雑駁で大風(オオブリ)な社会では「世間の役割が小さい」のは当然だ。「世間の出来が悪い」から、思想という大縄を打って統べるしかない。両者は一見対立関係に見えるが、実は補完関係にある。ここが氏の達識である。
 してみると「思想」が圧倒的に大きいフランス社会では、開けて通したり頃合いに済ませたり場合によっては聞かなかったことにするといった「世間」が極小化されているといえなくもない。
 いま、「表現の自由」「言論の自由」は錦の御旗だ。衝撃的事件ゆえであろう。しかし一方で、「言論の暴力」が忘れられてはいないだろうか。不特定多数に被害が及ぶ言論の暴力は、物理的暴力よりもはるかに範囲が広く深刻だ。心を傷つけ、蝕み、尊厳を踏みにじり、生きる力を奪っていく。卑劣で狡猾で陰鬱な暴力だ。シャルリー・エブドがそうだったというのではない。だからテロリストに正当性があるというのでもない。そうではなく、「言論の自由」の大きな旋風が「言論の暴力」に盲いる結果を招来してはならないといっているのだ。錦の御旗は時として思考停止を強いる。いわんや大風に激しくはためいている時はなおさらだ。心せねばなるまい。
 括りに、養老氏の透察にも通底する内田 樹氏の論究を引いておきたい。
◇私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々はいささか警戒心を欠いているように私には思える。◇ (文春文庫「邪悪なものの鎮め方」から)
 「争いの無限連鎖」を停止することはファースト・プライオリティだ。そのためにどちらか一方が「節度の感覚」を持てるかどうか。論理的に「正しくない」選択ができるかどうか。論理的に正しくはなくとも、歴史的に正しい選択はある。「『被害者意識』というマインドが含有している有毒性」がどれほど強いか、かついかに非生産的であるか、もうそろそろ肝に銘じてもいい。 □