伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

こどもの気分

2015年01月06日 | エッセー

 年明けから言葉尻を捉えて、金棒を引く。
 昨年末、宮崎県で鳥インフルが見つかった。記者会見で菅官房長官は「総理の御指示により」万全の対策を講じる旨語った。
 「御指示」とはなんだろう? 官房長官といえば女房役である。まさか、「夫の御指示により今夜はライスカレーにします」などとは言うまい。社員が社外に向けて「社長の御指示」や「社長は御不在」なぞと言わないのと同じだ。皇室でもあるまいに、このなんとも過剰な丁寧語はなんだ。長官のリテラシーに齟齬をきたしているなにかを、つい勘ぐりたくなる。
 文筆家の平川克美氏は、
◇「俺は偉い、俺は正しい、俺をもっと尊敬しろ」
 自己評価と、客観的な評価がかけ離れていることに、気がつかないというのは、自我肥大化した人間の滑稽さであり、悲しさですが、最近の日本を見ていると、なんだか最大限虚勢をはって、その分だけ孤立感を深めている自我肥大化したこどもを見るような思いがします。これはかなり厄介な病です。◇(晶文社「街場の憂国会議」から)
 と語る。「最近の日本」を「こども」と評しているのだが、そのまま「最近の日本」の“顔”にも同断といえる。先月の拙稿『総選挙に異議あり』でも、その幼児的ビヘイビアについて触れた。子どもといえば、07年夏突然の政権放擲に民主党の仙谷由人氏が「あんな子どもに総理大臣なんかやらせるからだ!」と呼ばわった一撃が蘇ってくる。もっとも民主党政権もただの「あんな子ども」たちに過ぎなかったのだが。
 長官の措辞はきっと「総理の御指示」ではないだろう(だったら、末世も極まれりだ)。回りが忖度しているにちがいない(実はこれが権力の忌むべき行使のありようだ)。いかにもトップダウンで陣頭指揮を執っている風を印象づけようとしているのではないか。昨夏ゴルフ中に起きた広島での土砂災害への対応のまずさを反省してのことでもあろう。しかし、先ずは厚労大臣ではないか。なんでもかんでもトップが仕切ったのでは小さな親切大きなお世話、事の軽重が霞んで文字通りの狼“少年”になりかねない。
 上掲書でコラムニストの小田嶋隆氏は、震災以来の社会の導因を歴史的必然や経済的法則ではなく、「時代の気分」だと観る。
 別けても安倍首相の気分。氏は、「安倍さんは、うかれている」という。首相が「躁状態に似た気分の変動の中にいる可能性」を指摘し、
◇安倍さんは、「鬱憤を晴らす」ことや「快哉を叫ぶ」ことや「溜飲を下げる」タイプのビヘイビアに傾いていて、しかも、どうやら、節目節目で、その種の「毅然とした」態度を見せておくことで、若い世代の支持を集められると考えているフシがある。で、その、場当たり的な「毅然」パフォーマンスが、現実にシンパの喝采を集めていることも一面の事実ではあるわけで、だからこそ「気分」の政治は恐ろしいのである。◇
 と憂慮する。さらに時としてみせる小児的な態度などを挙げながら、
◇以上の出来事からわかるのは、宰相再任以来、安倍さんが、「早口」で、「軽率」で、「攻撃的」で、総じて「気分の変わりやすい」状態にあることだ。さらに言えば、安倍首相の態度からは、多動、多弁、行為心迫(何か行動しなければと追い立てられている状態)、作業心迫(何か作業しなければと追い立てられている状態)、観念奔逸(気が散って、次から次へと話題や考えが変わる状態)といった、躁病患者の諸症状を疑わせる特徴が、随所に読み取れるわけで、そう思ってみると、事態は、真に憂慮すべき局面に来ているのかもしれないのである。◇
 と警鐘を鳴らしている。コロラリーは以下の通りだ。
◇キャッチフレーズにしてからが、そもそも、「気分」以上のものを表現していない。事実、「日本を取り戻す」と言う時の「日本」が、いったいいつの時点の、どの「日本」であるのかを、安倍首相は、一度たりとも自分の言葉で説明していない。ついでに言えば、「取り戻す」のが、何なのかについても、説明は皆無だ。「取り戻す」と宣言している以上、かつての「日本」の中にあった「何か」が失われたことを証明せねばならないはずだし、その「何か」が具体的に「何」であるのかを、明らかにしないと話の筋道が通らない。しかしながら、この点についても、安倍さんはついぞ言葉にしたことがない。「新しい日本」というスローガンも、その意味するところは、一貫して謎のままだ。これでは、午前2時のコンビニの駐車場にタマっているヤンキーが、
「やるぜ!」
 と言ってるのと少しも変わらない。
「オレもやるぜ!」
「オレもだ。なんかやる気になってきた」
「何をやるんだ?」
「知らねえし」
「わかんねえし」
「そういう質問ムカつくし」
「やめるし」
 わかった。質問はやめる。追及も断念する。
 好きにしてくれ。
 安倍さんにとっては、あれこれうるさく質問したり説明を求めたりせずに、ただただ純真なまなざしでついてくる者だけが、美しい国のメンバーだということなのだろう。気分が国を作るというのは、そういうことだ。
 私はごめんだ。私は、自分の国に住む。◇
 つまりは3.11以来の鬱屈した「時代の気分」に乗じる形で「気分」の安倍政治がある。早い話が、アベノミクスなるものもほとんどが「気分」だ。そのネーミングからしておちゃらけ。「“異次元”の金融緩和」も、わざわざ大仰な措辞に及ぶのは「気分」を煽ろうとする小細工だ。実態はなにも動いてはいない。GDPというエビデンスを突きつけられびっくらこいて、「やるぜ!」のノリで大義なき「気分」の解散を打った。もちろん、9月から極秘裏に準備を進めていたらしいことをもって「気分」に非ずともいえよう。だが、手練れの官僚が数値の推移を注視すれば7―9の予測ぐらい朝飯前だ。むしろ踏み留まって冷静な分析と適確な対策を練ることこそ王道のはずではないか。下拵えがどんなに緻密であろうとも、牛丼の注文を突如「気分」でパスタに変えられたのでは厨房は白ける。だから国民の半分は「気分」が乗らず、投票所に行かなかった。挙句が小選挙区制の力学で圧勝に終わる。なんとも切ない。
 夜郎自大は「こども」の属性である。平川、小田嶋両氏の論攷に通底するのは「こども」だ。暮れになって、あああれはやっぱり金棒引きだったと嗤われることをひたすら願うばかりだ。 □