伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

羊の皮は御免だ

2015年01月29日 | エッセー

 渦中である。気は重いが、何点か雑感を記す。
 一報に接した時の第一印象は、「ヤンキーが調子こいて碌でもないことをするからだ!」であった。ヤンキーとは人質ではない。アンバイ君のことである。なぜ彼がヤンキーか。今月6日付の拙稿『こどもの気分』で述べた。そこに引いた精神科医にして批評家の齊藤環氏は、ヤンキーの特質として「アゲアゲのノリと気合い」を挙げている。総選挙大勝の「アゲアゲのノリ」で“世界の平和に貢献しよう”(お得意の常套句)と、外務省の制止を振り切って「気合い」を入れて中東へ乗っ込んだらしい。
 「昨年11月に行方不明事案の発生を把握した直後に、官邸に(情報)連絡室、外務省に対策室を立ち上げ、ヨルダンに現地対策本部を立ち上げた」
 これはアンバイ君の国会での答弁である。問うに落ちず語るに落ちるだ。こういう外交感覚は『ヤンキーのノリ』としか名状しがたい。さらに、語るに落ちたこの答弁は内政感覚においても『ヤンキーのノリ』そのものではないか。前記の拙稿に引用した平川克美氏の「『俺は偉い、俺は正しい、俺をもっと尊敬しろ』という自我肥大化した人間の滑稽さ」の言が鮮やかに符合する。内輪に向かって張ってみせた虚勢が場合によって墓穴を掘るやもしれぬとの慎重さが皆無だ。例に漏れず、それほどこのヤンキーは軽い。
 「今回の件は、安倍さんがわざわざあっちに出掛けて行って、周辺国への援助を約束した。人道援助といっても、戦争での一番大事な輜重、補給になるわけで、戦闘行為と同じ。相手側にとっては宣戦布告と同じだ。相手からすれば敵と見なされるのは当然だ」
 これは1月25日NHK「日曜討論」での小沢一郎氏の発言である。如上の答弁は、「わざわざ」に内実を与える恰好の言質である。人質立て籠もりの隣家に親が乗っ込んで、警察に差し入れに来たぞ、と呼ばわるようなものだ。センシティヴな問題に処するセンシヴィリティの致命的な欠落は、『自我肥大化』した『ヤンキーのノリ』と言う以外説明がつかない。なお敢えて合理的な理由を探そうとすれば、ライトな連中が反対者に浴びせる「平和ボケ」であろうか。この十八番をライトなリーダーであるアンバイ君にそっくり返せば、寸分違わず嵌まるではないか。
 ついでにいうと、小沢氏の発言も決して褒められたものではない。武力行使を含む国連の平和活動は合憲だとし、国連決議に基づき自衛隊を海外派遣できる「普通の国」になるべきだというのが氏の持論だ。ならば「普通の国」の遙か手前ですでにこの有り様であることを考えると、晴れて「普通の国」になれた暁には百人千人単位の“人質”を覚悟せねばなるまい。持論の先にある現実は棚に上げて敵失だけは論う。まことにマキャベリストの面目躍如ではないか。
 もう一つ。政府は想定問答で──米国主導の軍事作戦に自衛隊が密接に協力すれば、敵対する勢力から攻撃される可能性が高まり、日本人は日常的に「テロの脅威」に直面するのではないかとの懸念に対し、むしろ、テロ事件を受けて安保政策の方向性を曲げれば「我が国がテロに屈したとも受け止められ、かえってテロを助長する可能性もある」──と、反論を用意している。これは巧妙だ。まさにその「安保政策の方向性」そのものが喫緊のマターではないのか。集団的自衛権をはじめあたかも既定路線のように、あるいは既成事実のように言い包める。瞞されてはなるまい。
 次は、「積極的平和主義」についてである。アンバイ君のストックフレーズだ。しかし、言葉の意味が解っていない。
 ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏の創見である。「戦争のない状態」を“消極的平和”とし、戦争はもちろん暴力や貧困、差別のない状態を“積極的平和”と定義した。水面下の氷山を含めて“氷山”と呼ぶように、「平和」をより“積極的”に捉え行動を起こそうという趣旨である。“ワイド・レンジ”ともいえるし、「人間の安全保障」に連なる概念でもある。ところがアンバイ君をはじめ政府の面々が使う「積極的」は“アグレッシブ”との意味合いで、軍事力の行使も厭わない攻めの平和構築との謂である。「世界の保安官」を自任するアメリカンスタイルともいえる。ここにも「アゲアゲのノリと気合い」が窺える。自衛隊による邦人救出や、米軍主導の有志連合への参加を志向するものといえよう。『攻撃型平和主義』とでも呼ぶ方が実態に近い(形容矛盾だが)。ただし、これはひとつとして人類史に成功例がない。ひとつとして、だ。その深刻な自省を踏まえて、ヴァージョンアップした「積極的平和主義」こそ憲法九条ではないのか。ヤンキーの頭は学習機能が壊れたワープロなのであろうか。番度、一から入力せねばならない。まことに使い勝手が悪い。
 「許しがたい暴挙であり言語道断」とは、今回何度もアンバイ君が口にする言葉だ。去年たしか憲法の解釈変更に際し、彼が浴びた批判だった。因果応報というべきか。彼はいま、「言語道断」というしかない状況に立たされている。「言語の道」を絶たれ、手も足も出ないのだ。国内でこそ言語道断の狼藉を働くことができても、国外には通じない。むしろ言語道断の手痛いしっぺ返しを喰らう。「積極的平和主義」などと、分際を弁えぬヤンキー染みた「アゲアゲのノリ」なぞ止しにした方がいい。事件の意味はそう取るべきだ。万が一にも「安保政策の方向性」とやらの追い風に逆用してはならない。渡りに船、奇貨可居など、とんでもない「暴挙」である。そこはしっかりと監視していきたい。「積極的平和主義」が羊の皮を被った狼になってはならない。そんな干支は御免だ。 □