伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『限界集落株式会社』 2/2

2015年01月18日 | エッセー

 タイトルはそのままだが、続編である『脱・限界集落株式会社』について書く。
 商店街の衰亡を語る時、気鋭の社会学者・新 雅史氏の『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社新書、12年5月刊)を避けるわけにはいかない。本稿では12年9月に「再びアーカイブ」と題して取り上げた。臆面もなく、拙稿を抄録してみる。
〓「商店街とは二〇世紀になって創られた人工物である」
 まずは、この一節に驚かされた。以下、要録してみる。
○城下町の市、門前町が「商店街」の起源ではない。中小の商店が集えばそれだけで自動的に「商店街」になるわけではない。商店の連なりだけには還元できないシンボル性(引用者註・離農者の受け入れ)をもった「商店街」が、第一次世界大戦後に形成された。
○近世の商家が奉公人を交えた疑似血縁組織で世襲される「イエ」であったのに対し、商店街の担い手は「近代家族」であったため、家族という閉じたなかで事業がおこなわれ、その結果わずか一、二世代しか存続できないようになった。
○バブル以降、地方に財政投融資がばらまかれることによって、郊外型のショッピングモールが跋扈した。さらに追い打ちをかけたのがコンビニだった。
○コンビニは、「商店街」という理念とまったく異なっていた。「横の百貨店」が、コンビニという「万屋(ヨロズヤ)」が登場することによって、たばこ屋・酒屋・八百屋・米穀店などの古い専門店は、その存在意義を奪われた。〓
 身も蓋もないがつまりは、人工物である限り社会的変移に応じて変態するということだ。まことに冷厳で鰾膠も無い理屈だ。
 だが、『脱・限界集落株式会社』はその「社会的変移」が1回転しているところに着眼した。ここがツボだ。前稿で「後作では、前作とは逆の発想で仕舞た屋商店街の活性化を試みる。だから、『続・』ではなく、『脱・』と冠しているのではないか」と述べたのはその謂である。中身は作品に当たっていただくほかないが、1回転した社会的変移が少子高齢化のフェーズであってみれば、駅前商店街こそもう一度ジャストフィットする「人工物」たり得るのではないか。そういう解を提起している。むしろ前作よりも示唆的だといえる。
 一方、経済成長に対置する「定常経済」のモデルとして商店街を捉える視点もある。平川克美氏はこう語る。
◇「商店街というのは、定常経済が基本なのだと思います。定常モデルとは、成長しないモデルです。成長はしないが、そのメンバーがそれぞれの場所に棲み分けながら、社会全体が持続してゆくことを優先します。共生のための様々な取り決め、暗黙の了解、共同体を守るための互助的な制度があって、地域の人々が持続的に生活していける場を育成していくことが重視されているわけです。人口が減少し、老齢化している日本は、世界に先駆けて定常モデルの可能性を探るべきだろうと思うのですが、成長モデルの中で生まれたすべてのシステムはこの流れを受け入れることができません。とりわけ、利益の配当を期待する株主から資本を集める、株式会社というシステム(株式公開会社)は、定常モデルでは成立が困難なのです。◇(内田 樹編、晶文社「街場の憂国会議」から)
 極論すると、商店街の商店同士でモノ・カネが行き交えば成長はないが生活は維持できる。それが定常経済ということだ。極小の自立経済圏である。
 経済成長から定常経済へ、平川氏はパラダイムシフトの緊要を訴えている。半端ないビッグマップである。もう少しスケールダウンしたマップを描くのは経済学者の浜 矩子先生だ。
◇日本は非常に個性的な地方自治体からなる国である。都市国家として成立する地域が数多く存在し、それらを明確な独自性のある連合体に改組し、グローバル・ジャングル的発想で変身を遂げることができれば、世界にとって驚くべきロールモデルになるだろう。猛烈なペースで発展し、世界の最先端にいるグローバル時代の成熟国家に一番乗りしている日本がやることに意味がある。
 政府の財政は悲惨な状況にあるが、企業や家計が大幅に資産超過にある日本の国富は8000兆円にもなる。フローはすっかり落ちぶれたが、今の日本は間違いなく世界有数のストック大国である。豊富なストックを分配するために知恵を絞るのが、ストック大国のあるべき姿だ。フローを生む経済ではなくなったのだから、失われた成長を求めてもはじまらない。むしろ豊かなストックを分配することで、失業者や非正規雇用者など社会的弱者を救済し、疲弊しきった地方経済に喝を入れてシャッター商店街を蘇らせる。中央政府の権限を地域に分散し、日本が開かれた小国からなる、活力に満ちた連合体に変貌させる。これほど成熟度を増した経済では、成長率は結果であって目標ではない。だが、成熟度にふさわしい豊かで、賢い分配の構図を構築できれば、結果的に成長率が高まることはあり得るだろう。
 ストック大国であるにもかかわらず、日本を覆うフローへの幻想は「新成長戦略」という言葉に象徴される。このようなものを立案して成長率を高めようとしているのはいかがなものか。ファウストのように「永遠の若さ」を手に入れようとするあさましい発想だ。◇(11年11月刊、宝島社新書「恐慌の歴史」から)
 直近の報道によると「国富」は9200兆円を超え、やがて1京に迫ろうとしている。僅か3年で1200兆円も増えた勘定だ。まさに“超”の付く「ストック大国」である。そろそろ成長神話から覚めて、国家規模の商店街を構想してもいいのではないか。ところが当今はすっかり先祖返りした永田町と霞ヶ関が鼻面を取って引き回し、本邦はこともあろうにひたすら今来た道を逆走しているようにしか見えない。どうか『脱・限界集落株式会社』を『脱・限界“国家”株式会社』に読み替えて再考を願いたい。蛇足ながら、国家の「株式会社化」については本ブログで何度も内田 樹氏の論攷を引いて触れてきた。
 テレビドラマ化はぜひ後作から、あるいは後作だけにしてほしいものだ。後の祭りだが……。

<跋>
 前稿で触れた「消滅可能性都市896のリスト」について、引用書の中で増田寛也氏は「人口予測は、政治や経済の予測と比べて著しく精度が高いと言われており、大きくぶれることはない。過去に出された推計値と実際の数値を比べれば、むしろ若干厳しい数字に向かうと予想される」と記している。子供や孫の住む世が“消滅都市”だらけになる。もうその時はいない、そんなことをいう脳天気こそとっとと消滅してほしい。どうせ浮かばれないだろうが。 □