伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

アベノミックス?

2014年05月05日 | エッセー

 「アベノミクス」を「アベノ“ミックス”」と言い違える人が時々いる(テレビのコメンテーターにもいた)。しかし瓢箪から駒で、あながち間違いではなさそうだ。いや、むしろ本質を突いているかもしれない。
 近頃の発言から拾ってみよう。

2月の衆院予算委員会
「(憲法は)国家権力を縛るものだという考え方はある(としつつ、それは)かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であり、いま憲法というのは、日本という国の形、理想と未来を語るものではないかと思う」
「先程来、法制局長官の答弁を(質問者が)求めているが、最高の責任者は私だ。私は責任者であって、政府の答弁にも私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは法制局長官ではない、私だ」
3月の参院予算委員会
「憲法自体が占領軍の手によって作られたことは明白な事実。私は戦後レジーム(体制)から脱却をして、今の世界の情勢に合わせて、新しいみずみずしい日本をつくっていきたい」
「国民の生命、財産と日本の誇りを守るため、今こそ憲法改正を含め、戦後体制の鎖を断ち切らなければならない」
 
 誰かの入れ知恵であろうが、「かつて王権が……」はあまりにも浅薄な知見ではないか。王権のアカウンタビリティを構築するためだったとはいえ、ホッブズなどが「自然状態」という概念から導出した本質的な権力観が憲法の基底にある。「自然権」との抜き差しならない代価だ。だから「王権」が失せた現代においても権力が存在する以上、権力への軛が不要となるはずはない。その憲法の使命は不変だ。かつての古い話ではなく、極めて今日的でオールウェイズに問われるべき課題だ。「王権」などではなく、「自然権」の問題である。なんだか、綯い交ぜにしてないか。
 内閣法制局について切った大見得は、悲しいかな空振りだ。第61代内閣法制局長官であった阪田雅裕氏の近著を徴してみたい。 「『法の番人』内閣法制局の矜恃」(大月書店、本年2月刊)で、氏はこう語る。<>部分は対談者の川口 創氏(弁護士、日弁連憲法委員会副委員長)。
◇憲法ができてから二十何年もたってから、ようやく違憲の判決(引用者註・尊属殺の違憲判決)が出た。そうやって慎重にならざるをえない司法の限界というのは当然あると思います。それだけにというか、法制局が立法段階で果たすべき役割は大きいし、責任が重いと考えています。
<最高裁が最終的に有権解釈権をもっているとしても、すべての事情について最高裁に意見を求めるわけにはいかないですし、裁判事例となるケースは稀です。しかも、政治的な問題になるようなケースでは往々にして統治行為論ということで最高裁が判断を避ける。そうであればこそ、日々の行政の執行が憲法の枠内で適切に行われているかどうかをチェックし担保する内閣法制局の役割が、立憲主義を機能させていくために必要だということですね。>
<憲法に反するというところまで行く場合には、最終的に裁判所が判断して無効にする。しかし行政府においては、まさにこれから法律を作って執行していくという段階で、入口での憲法適合性のチェック機関がどうしても必要になる。裁判所の役割と内閣法制局の役割は、両方あって初めて立憲主義が機能する、車の両輪なのかなと思います。>
 入口というか、立法段階で違憲の疑いのあるようなことは絶対に避けなければいけないという思いは強くありました。憲法とは何であり、法律とは何であるかということがわかっているか、リーガルマインドをもって思考できるかどうかというのが大きいと思います。
<法制局は明治憲法ができる前からあったわけですから、まさに法治国家の要として、歴史のなかで重要な役割を果たしてきたわけです。しかし、集団的自衛権にかかわる従来の憲法解釈を否定しようという今回の動きは、行政内部から立憲主義を支えるという内閣法制局の役割を否定するもので、単純に9条の問題にとどまらず、行政が憲法に従うという立憲主義の否定にもつながりかねない。ですからこれに反対しなくてはならないというのが私の立場です。>◇
 遙か旧憲法以前から存続し続けるこの官庁にどれほどの認識を持っているのか、まず疑わしい。内閣の一機関が裁判所のような権限を振るうのはおかしい、などという子供じみた批判が一部にある。なんと愚かな。立法段階での「入口」を軽んじて立憲主義が成り立つ道理はないではないか。小学生程度の知的レベルといわざるを得ない。
 長官経験者自身が綴る、時宜を得た実に好著である。御一読をお勧めしたいが、引用部分だけでも「空振り」は一目瞭然である。お得意のすり替えというか、憲法72条に抵触しかねない内容だ。「最高の責任者」であることと閣議決定の基での行政各部への指揮監督権とが、ここでもまたもやミックス状態だ。
 「戦後レジーム」「戦後体制の鎖」は、『アベノミックス』のキーワードである。先述の「『法の番人』内閣法制局の矜恃」から再び引きたい。
◇<ニーズがあって初めて法的枠組みを検討するという立場であったということですが、今回の集団的自衛権の問題については、そうした政治的なニーズがほとんどないのではないかと思われます。にもかかわらず、こうも前のめりになっていること自体、いままでの政権の9条との向き合い方に比べても異常なように思えます。>
 それはやはり、ある種の国家観だと思いますね。古い言葉でいえば“列強に伍していく”ことができる国づくり、それを全体として目指す上で、9条の問題も避けて通れないということなのでしょう。◇
 “列強に伍していく”という「ある種の国家観」は、祖父岸信介の血統であろうか。彼は「日本民族の独立」を掲げ、自主憲法の制定を主張した。まことに生物的な臭いのするシンクロニシティーである。
 何度か触れた白井 聡氏の『永続敗戦論』を援用したい。
◇事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを実行しないという言行不一致を犯しながらも長きにわたり権力を独占することができたのは、このレジームが相当の安定性を築き上げることに成功したがゆえである。彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神洲不敗」の神話は生きている。しかし、かかる「信念」は、究極的には、第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる(もう一度対米開戦せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く。それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。◇
 安倍首相の場合、用心深く読む必要がある。「国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの『信念』を満足させながら」は中韓との為にする有害な軋轢を見れば解るとして、「第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない」場面が仄見えることだ。白井氏の言に反して、「筋の通った『蛮勇』を持ち合わせて」いるかもしれないと勘ぐれる言動があるからだ。冒頭に記した委員会答弁はまさにそれだ。悲願の靖国参拝への「失望」は、「卑屈な臣従を続け」ないというメッセージへのなによりの証明となった。
 ひょっとしたら集団的自衛権の提起も同類といえるかもしれない。「『法の番人』内閣法制局の矜恃」にこうある。
◇<アメリカ本土に明確に向かっている場合は、(引用者註・迎撃は)いまの憲法上はできない。>
 ええ、できないということです。ミサイルの場合は、技術的にも撃ち落とすのは不可能のようなので、あまり意味がないと思うのですが、どうしてもやる必要があるということなら、憲法を改正して対応するということではないでしょうか。
<もともと技術的にできないとも言われていますから、ためにする議論という気もしますが、アメリカ本土に向けられたものを撃ち落とすのは、集団的自衛権行使にあたってしまうということですね。>
 細かい類型を出してきているのは、集団的自衛権の行使という根拠でもないと説明できないし、こういうことをする必要があるから集団的自衛権を行使できるようにすべきだという主張のためですよね。でも、それならこんな仮想的な事例を出さなくても、外国での戦争ができないのを、外国での戦争ができるようにしたいと言えばいい。そう言わず、なぜこんな非現実的な類型をたくさん作るのか、よくわからないですね。◇
 ミサイルの迎撃が不可能に近いことは、どうやら衆目の一致するところらしいが、それはさておき「外国での戦争ができる」先には何があるか。中国の大国化を織り込んだアメリカのアジア戦略を見誤ってはなるまい。米ソの冷戦構造と同様に見ては、置いてけ堀を喰うは必定だ。集団的自衛権へのアメリカの好感を真に受けては怪我をする。大国のリップサービスは要注意だ。「外国での戦争ができる」日本は、確実にアメリカのプレゼンスを低下させる。果たしてそれはアメリカの国益に資するのか、どうか。アメリカ政府があまり安倍政権を好きではない素振りを見せるのは、「筋の通った『蛮勇』」を生理的に直感しているからといえなくもない。下手をすると、アメリカのアジア戦略を読み違える程度において鳩山内閣と同等に堕しかねない。鳩山の愚と大差はない。
 「戦前的価値観」を今日的状況にミックスすることこそ『アベノミックス』のコアだとすると、なんとも悍しい。「アベノミクス」がつっかえて『アベノミックス』。瓢箪から駒ならいいが、とんでもない怪獣が出て来そうだ。 □