伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

Aクンの勘違い

2014年05月23日 | エッセー

 とりあえず心身二元論に立つと、以下の内田 樹氏の論攷は大いに頷ける。
◇アメリカは身体加工への抵抗がきわめて希薄な国です。それは言い換えると、身体というものが一種のヴィークル(乗り物)のようなものとして観念されているということです。筋肉増強剤やステロイドを打ってまで、オリンピックに出てメダルを取ろうとしたり、試合に勝とうとする。それは、彼らにとっての自分の身体が、彼らの意思や野望を実現するための「道具」として扱われているからです。◇(『街場のアメリカ論』から)
 プチ整形がカジュアル化しつつある動向を捉えると、本邦も「親からもらった」という伝統的レギュレーションが弛んでアメリカナイズしてきたといえるかもしれない。
 昨年の『修業論』ではドライブが掛かる。
◇私たちが何かにアディクトするのは、自分が自分の身体の支配者であるという全能感をそれがもたらすからである。ダイエットでも、自傷行為でも、ギャンブル依存でもアルコール依存でもそれは変わらない。問題は「私は自分の身体を統御している」という全能感のもたらす愉悦なのである。一度全能感を経験した人間は、「もっと入力を」という要請以外のものを思いつかなくなる。これが、「強化型」の発想をするアスリートが陥りがちなピットフォールである。◇
 タイトルの展開がアスリートに及んだ部分である。アディクトの愉悦は身体統御の全能感にあり、ピットホールは経験者が更なる入力を要請するところにある。極めて明快な理路だ。ただ、「ギャンブル依存でもアルコール依存でも」には留意が必要だ。どちらも統御の対象は一見身体ではないからだ。だが正確にいえば、脳という『内部身体』(おかしな言い方だが、脳も身体の一臓器である)への統御である。ここを明らかにするため、先日も援用した才媛中野信子女史の著作を徴したい。
◇幸福感に包まれるとき、私たちの脳の中では、快楽をもたらす物質「ドーパミン」が大量に分泌されています。この物質は食事やセックス、そのほかの生物的な快楽を脳が感じるときに分泌されている物質と、ギャンブルやゲームに我を忘れているときに分泌されている物質とまったく同じなのです。これは一体どういうことなのでしょう。ヒトという種は、遠い将来のことを見据えて作物を育てたり、家を建てたり、さらには村や国を作り、ついには何の役に立つのかわからない、科学や芸術といったことに懸命に力を注ぐような生物です。そういった、一見役に立つかどうかわからなそうな物事に大脳新皮質を駆使することで結果的に自然の脅威を克服し、進化してきた動物がヒトであるともいえるでしょう。◇(幻冬舎新書「脳内麻薬」から)
 ヒトのサバイバルに資するための脳内物質ドーパミンがギャンブルやゲームへの忘我をも嚮導する。皮肉な宿痾だ。ギャンブルへのアディクトは脳内物質ドーパミンを賦活して「脳という『内部身体』」を統御するからである。続いて、刮目すべき達見に至る。
◇知能的行動は「目の前の餌を食べたい」という欲求と、時にはぶつかり合います。やるべきことは(引用者註・将来のために備蓄すること)わかっていても、生理的欲求には逆らいにくいものです。その葛藤を克服するために、ヒトの脳は快楽物質という「ご褒美」を用意し、遠い目標に向けて頑張っているときにそれが分泌されるしくみを築き上げたのではないでしょうか。快楽とは、ヒトが目的を達成するための妨げになるものではなく、給料や昇進という報酬がなかった原始時代から、ヒトの脳が用意した「頑張っている自分へのご褒美」なのです。このご褒美は時には生理的欲求を打ち負かすほどのものですから、非常に強力です。しかし一つ間違うと、頑張らずにご褒美だけ求めるようになります。これが依存症や薬物中毒です。◇
 これは唸る。快楽は先払いの報酬。それもドーパミンが担う。ひょっとすると脳内レバレッジといえなくもない。けれども「一つ間違うと、頑張らずにご褒美だけ求めるようになります」は、荷厄介だ。「一つ間違うと」は、どう間違うのか。肝心要は詳らかにされていない。同書の本旨ではないからか。ともあれ、次はアルコール依存である。大きく括れば、おクスリへの依存、進めば中毒だ。女史は次のように警告する。
◇中毒を起こすのは麻薬や覚醒剤だけではありません。アルコールやニコチンはもちろん、現在「合法」とされている薬品にも大麻より強い依存性が見られるものがあります。覚醒剤の働きはコカインと似ていますが、より強力です。コカインと同じくドーパミンの「掃除機」の働きを妨害するだけでなく、ドーパミンの放出そのものも増大させ、大量のドーパミンが脳に溢れた状態をもたらします。◇
 中毒とは、「頑張らずにご褒美だけ求める」最も厚顔無恥な不当請求である。前記した「脳という『内部身体』への統御」のウロボロス的最終形である。
 そこで冒頭に戻ろう。自らの身体が「意思や野望を実現するための『道具』として扱われているから」こそ「筋肉増強剤やステロイド」の使用に至ることと、「身体統御の全能感」というアディクトの愉悦も同根ではないか。後者も同じく「脳という『内部身体』」を「道具」として扱っているからだ。
 してみれば、話題のAクンは「とりあえずの心身二元論」に足許をすくわれたといえよう。「身体統御の全能感」を『精神』統御の全能感と取り違えてしまった。「頑張らずにご褒美だけ求める」ことが経済的原則に著しく背馳することを、厚かましくもスルーしたにちがいない。つまりは、精神にも“筋肉増強剤やステロイド”が効くと勘違いした。いわば精神のドーピングであり、プチ整形ともいえる。しかしAクンにはお気の毒だが、ドーピングや整形は心身の「身」だけを対象にして、「心」にはいっかな効かないものなのだよ。ADDICTのAクン、まことにとんだ勘違いだった。残念! 再起を祈る。 □