伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

負けっぷりがいい

2014年05月20日 | エッセー

 こんな負けっぷりのいい相撲取りはいない。微かに柏戸が浮かぶくらいだ。とにかく外連味なく、鮮やかに負ける。気っ風のいい取り口は見ても、気っ風のいい負け方はついぞお目にかかれない。
 遠藤である。
 先場所、今場所と大関、横綱と当たるようになって、特にそうだ。イレギュラーに勝つことはごく稀で、至極順当に負ける。現在までの6敗のうち、4敗は大関と横綱が相手であった。見落としてならないのは、格上に歯が立たないことの当たり前さだ。力倆のみによって構築されたヒエラルヒーを上昇するのは力倆のみだ。上位に油断が生じる場合もあるが、鳴り物入りの駆け出しに隙を見せる上位者はいない。番狂わせは妙味ではあっても、ヒエラルヒーの上昇力とはなり得ない。下位に勝って、上位に負ける。当たり前だ。問題は当たり前さの加減、つまりは負けっぷりのよさだ。だから、遠藤である。
 回想が廻る。
 58年4月5日、鳴り物入りのルーキー長嶋が王者・金田とはじめて対決した。長嶋は3番、金田は先発。初回は空振り三振。第2打席も空振り三振。第3打席は三球三振。最後の第4打席も空振り三振。バットに当たったのは第2打席の3球目、ファールチップの1球のみ。プロ野球史上に高高と残る4打席連続三振だった。
 捕手の谷田は「あれだけ完璧に抑えられたのに、ベースに被さったり、近づいたりという小細工をしなかった。こんな打者は見たことがない。長嶋は怖い存在になる」と評し、当の金田は、「三振を恐れず、おもいっきり振りおった。あいつはすごい選手になるで」と語った。
 谷田も金田もさすがというべきであろう。彼らは長嶋の負けっぷりにただならぬものを直感した。それはまた、畏るべき後生に偶会した喜びでもあったろう。この回想が斯界でも再現することを切に願う。
 萌芽はとっくに兆しているといえる。なにせ横綱の取り組みに伍する懸賞の数。何年かぶりの、連日に亘る満員御礼。遠藤コール。響めき、悲鳴。大相撲復活も決して“エンドー”い(縁遠い・失礼!)話ではない。
 イントロダクションは焦(ジ)らすほど長いのに、プレー時間はおそらくあらゆる競技の中で最短であろう。推するに、それに相関して熟達の度合いも一場所ごとにこれほど明瞭な競技もない。柄はこの上なく大きいが、万般に限りなく細かい。小趾一本で勇み足となり、ビデオ判定でも決着がつかない同体もある。長大と短小のシンクロ。相撲の滋味である。
 柄でいえば、かつての外国人横綱はハワイ出身であった。圧倒的な体躯を誇った。今はモンゴルにシフトした。フィジカルには日本人と変わらない。売りは柄ではなく技だ。だから余計やきもきする。元祖に頭が上がらない歳月が続いた。そこに現れた彗星である。排外などでは毛頭ないが、一時も溜飲を下げてほしいと期待するのは稿者ばかりではあるまい。3年前にどん底を潜り、それでも再興の端緒をつけた放駒親方が先日急逝した。この彗星こそ親方への何よりの手向けとなろう。
 テレビの解説に登場した振分親方(元・高見盛)が「期待のプレッシャーに負けないでほしい」と語っていた。あの負けっぷりを観ていると、とてもプレッシャーに負けるような柔ではなさそうだ。なに、焦ることはない。若乃花の引退以来、14年も俟ってきた。まさか今年でジ・“エンドー”(またまた失礼!)なんてことは断じてない。あと1年2年、邦人横綱を俟てないはずはなかろう。大器晩成。晩成とは後年の謂だけではない。長期との語義がある。本物の大器が早成であるはずがない。じっくりと負けっぷりのいい相撲を重ねてほしい。今日もテレビ桟敷から精一杯の応援を送る。
 負けるな(アレ?)! 遠藤!! □