伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

自然状態?

2014年05月10日 | エッセー

 高校でトマス・ホッブズを学んだ時、『自然状態』が新鮮だった。西欧流の思考にカルチャーショックを受けた。機械論的世界観の先駆者といってしまえば身も蓋もないが、「神」なしに人の世の掟を据えるのは彼(カ)の地では至難だったにちがいない。そこで、描いたフィクションが『自然状態』であった。原理的な始原を措定して、論攷を重ねる。そういう理路の持って行き方が、なんとも新鮮だったのだ(勿論、物知らずであったからだが)。
 ホッブズの自然状態は『リヴァイアサン』で語られる、言わずと知れた「万人の万人に対する闘争」である。これには、「自然状態の存在は実証されていない」という批判が付き纏ってきた。「原理的な始原を措定」したのだから的外れなオブジェクションなのだが、案外そればかりではない。「実証」に値する知見が次々に提示されつつあるからだ。それらを要領よくまとめた恰好の良著がある。

   「ヒューマン」──なぜヒトは人間になれたのか <NHKスペシャル取材班>

 角川から単行本は12年に、文庫は本年3月に出た。これが滅法おもしろい。如上のトピックだけではなく──私達は身体ではなく「心」を進化させてきたのだ。人類の起源を追い求め、約20万年のホモ・サピエンスの歴史を遡る。構想12年を経て映像化された壮大なドキュメンタリー番組が、待望の文庫化!──とコピーにあるように、実に斬新で雄渾な人類史である。構成は四つに分かれる。
 第1章 協力する人・アフリカからの旅立ち
 第2章 投げる人・グレートジャーニーの果てに
 第3章 耕す人・農耕革命
 第4章 交換する人・そしてお金が生まれた
 ぐいぐい引き込まれる。テレビ放映より数段深い。会長はボロでも、これは立派だ。近年ない興奮の連続であった。掛け値なし。読んで損はない。
 宣伝はそのくらいにして、閑話休題。
 第3章「耕す人・農耕革命」に、はたと膝を打つ興味深い話が出てくる。男性ホルモンの一つであるテストステロンだ。性ホルモンとしての機能のほか、闘争本能の中核を担う。攻撃的で暴力的なホルモンである。このテストステロンによる攻撃システムは進化の黎明期から備わっていたという。700万年前にチンパンジーとの共通祖先から別れ、猿人、原人、旧人のプロセスを生き抜く原動力になったであろう。だから20万年前にホモ・サピエンスが出現するまでの長遠な歴史を有する。つまり700万年前からの“ヒト”を“人”とすると、「万人の万人に対する闘争」は現実にあったといえる。ホッブズのいう通りだ。だが、お立ち会い。ここからがもっとおもしろい。オキシトシンの存在だ。このホルモンは逆の働きをする。「信頼のホルモン」と呼ばれ、愛情や信頼を喚起する。同書から引いてみよう。
◇このオキシトシンのシステムはなぜ、私たちに備わったのか。おそらく、非常に強力なテストステロンの拮抗勢力としてオキシトシンは発達したのだ。(引用者註・テストステロンははるかに長い歴史をもつが)ただ、ホモ・サピエンス20万年の歴史に限定すれば、このふたつのシステムは当初から共存していただろうとポール・ザック博士(米クレアモント大学教授)は考えている。「私たちには、対立する二つの分子があります。テストステロンとオキシトシンです。おそらく過去20万年のあいだ、この二つの分子は一緒に働いてきました。一緒に働き、私たちの体のなかで、道徳の陰と陽の両方を私たちに与えているのです」テストステロンに拮抗する勢力としてオキシトシンを私たちは発達させた。人間には否応なく闘争に駆り立てるテストステロンというホルモンもあれば、他人と信頼関係を構築していくためのオキシトシンもある。そのバランスのなかで、人類は歴史を積み重ねてきたと博士は指摘しているのだ。◇
 となれば、自然状態はホッブズを飛び越えてジャン=ジャック・ルソーのそれに近い。ところが、話はこれで終わらない。ヒトが「耕す人」となり、農耕革命がとんでもない事態を招く。縄張りの出現だ。加えて、それが今まで培ってきた利他性に逆作用を及ぼした。
◇定住して農業をはじめた事によって人類は、豊かになった。人口が増加するという成功も収めた。しかし、その定住がもたらしたのは、強い縄張り意識だったのだ。人類が厄介なのは、それまで数万年にわたって利他の心や集団の絆を大切にしてきた。それはひょっとすると、移動可能で、貯蓄のない狩猟採集を前提にしたものだったかもしれない。荒野をさまようような暮らしのなかで、身内だけを大切に思う心がなければ、生き延びることは難しかっただろう。しかし、移動をつづける暮らしでは、身内とそれ以外という区別を深刻に受け止める必要は少なかった。身内以外の人たちと遭遇する機会が限られていたのだ。ところが、定住し農業をはじめる生活に移行したとき、事情は一変する。身内を大切に思うその内向きの心は、不必要なほど、身内以外の存在に冷淡だったかもしれない。身内を大切にする心が非常に強く働き、暴走するようになったのかもしれない。身内とそれ以外、仲間と他人がつねにいることが明らかな環境になったとき、人類は身内に利他的な心に引きずられて、自ずと激しい闘争に導かれていったのだ。◇(上掲書より抄録、以下同様)
 これで、再びホッブズの自然状態に先祖返りしたといえなくもない。まことに「ヒューマン」の旅は険しい。
 利他性、「利他の心」は、なぜ生まれたのか。「進化の隣人」といわれ遺伝子はわずか1パーセントしか違わないチンパンジーに、なぜそれは備わらなかったのか。チンパンジーは助けても、助け“合わ”ない。母親が子供を助けても、その逆はない。
 700万年前森林のチンパンジーと別れ、人類は二足歩行とともに草原に歩み込んだ。ところが草原は圧倒的に天敵が多い、生きるに過酷な環境だった。大きくなった脳で知恵を使い、集団で助け合わねばサバイバルできない。さらに、もう一つ重要な視点が加わる。
◇助け合いは能力によって自発的に生まれるものではない。そこには、ある種の飛躍が必要なのだ。その飛躍を可能にするものは何なのか。助け合いはいわば長い射程でお互いに利することだ。自分が他人のために何かしても、ある時間が過ぎないと、その利益が戻ってこない。それをじっと耐えて待つというのは、未来を予知できない生物には非現実的だ。だから、その猶予期間を過ごすために、共感の能力が欠かせない。いまこの時点にだけ限ると、自分には得るものがないけれど、相手のために食べ物を渡すことによって、その人が食べ物を手に入れて幸せになる。その時点ではまだ私に幸せはないんだけど、共感する能力があれば、その時点での他者の気持ちが、自分の気持ちになる。他者の喜びを、我が喜びとできる。それが、共感するということである。共感があれば、共有できる相手の幸せを第一義の目的として、率先して親切にしてやろうという意志が生まれる。そうすると、めぐりめぐって、やがて自分にも利益が返ってくることに気づく。◇
 「飛躍」を可能にしたものは「共感の能力」であった。実に示唆に富む。同書で丹念に論じられるところだ。それは原本に当たっていただくとして、「先祖返りしたといえなくもない」自然状態は現今一層急迫の度を増していることだけは忘れてはならない。「実証に値する」どころか、直面する事実だ。そのような人類史的パースペクティブを供してくれる一書である。 □