伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

穴あけ問題

2013年07月22日 | エッセー

 かつてはもう少しよく聞こえたような気がする。耳が遠くなったのかしらん。それにしても、ほとんど雑音、轟音である。その中にアナウンサーの声を選って聞き取るのは至難の業だ。さらに競技時間が世界一短いときている。大一番ともなると、ワァーという巨大なノイズの渦中に必死で助けを求める叫び声を探すようなありさまとなる。勝ち負けはなんとか判る。だが途中の成り行きはまったく闇の中、いや渦の中だ。後でアナウンサーが勝負の展開をトレースしてやっと絵が描ける。
 先日、夏場所が終わった。この時間帯はテレビが観られない。いつも変わらずラジオ桟敷だ。十四日目の白鵬・稀勢の里戦などは始めから終わりまで轟音の只中、旅客機が着陸する滑走路にいるようなものだ。なにかすごいことが起こっているらしいのだが、なんだかさっぱり聞き取れない。この騒ぎようでは白鵬が負けたな、と察しはつく。一頻りの度外れた喧噪のあと、ひとりアナウンサー氏が上ずった声で事の顛末を伝えた。それにしても、天下のNHKが放送専用ブースの一つくらい作れないものか。臨場感を狙うにしても、行き過ぎだ。ブースでアナウンスし、会場の音をミキシングすればいい。野球中継に比して、最近そう憤ることがある。受信感度の問題ではない。ネットラジオでも同じだ。古(イニシエ)の常套句「かじりついて聞く」よ、再びであろうか。NHKの意図が奈辺にあるかは別にして、ふと浅慮を巡らしてみた。
 知のマエストロ・養老孟司氏は視覚と聴覚についてこう語る。
◇耳と目のいちばん大きな違いは何かというと、耳は時間を追っていくということです。お喋りがそうで、必ず時間がかかるんですよ。ところが、目は一目でわかるんです。時間性がないでしょう。◇(「記憶がウソをつく!」から)
 時間性の有無が視聴覚を別つ。視覚には時間は要らない。なるほど。しかし、物事の判断には時間性が必須となる。
◇「百聞は一見に如かず」という諺があるものだから、パッと見てわかることが大事だと皆さん思っているかもしれませんが、物事を理解するためには、どうつながっているかの因果関係が重要なんです。その点、耳の聴こえない人はこれが苦手です。疑問形がわからないでしょ、因果関係が把握しにくい。耳が聴こえない子どもに疑問文を教えるにはどうしたらいいかというと、文章を穴あけ問題にする。「このブランクを埋めなさい」と。抜けているのは見てわかる。何か大事なものがあって、ここが抜けているなという形で、まず疑問を教えていく。疑問文というのは論理の基本なんです。◇(「耳で考える」から)
 聴覚は因果関係の理解に関わる。意表を突く深い考究だ。してみると立ち会いから軍配が上がるまでの、実態的にはミュートといえる巨大なノイズは因果関係が隠された状態といえる。「このブランクを埋めなさい」と問いかけられているようなものだ。ここにある種の苛立ちと因果を辿る知的な愉楽が潜むのではないか。しかも長い時間ではない。長くて三十秒、すぐに「疑問」は解ける。「百聞は一見に如かず」のテレビには真似のできない芸当だ。もしテレビがそんなことをしたら、抗議が殺到する。
 さらに、音に特化したラジオの属性がある。言葉による伝達である以上、端っから知的である。相撲を知らない人や日本語を解さない人にとっては、ラジオによる中継はほとんど意味をなさない。
 などとNHKの肩を持ちつつ、来場所の稀勢の里に期待をつなぐ。ぜひとも十五回の巨大なノイズを聴きたい。ほとんど雑音、轟音でいい。いや、そうではないか。ノイズの起きる間もなく軍配が上がり、続いて度外れた喧噪が湧く。こちらが望ましい勝ちっぷりか。どちらにしても、ラジオ桟敷には「穴あけ問題」だ。 □