伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

赤信号、みんなで渡る?

2013年07月02日 | エッセー

「〇〇してもらっていいですか?」
 最近よく耳にする。Aさんに出勤を依頼する場面で、BさんがAさんに、
「今度の土曜日、出勤してもらっていいですか?」
 と訊く。Aさんに出勤してほしいのに、これでは出勤するのは架空の第三者Xさんになる。つまり本来出勤すべきBさんが、Xさんが出勤する許可をXさんに代わってAさんに求めている。
「今度の土曜日、<Xさんに>出勤してもらっていいですか?」
 と同意を求める。これなら問題はない。しかし、例文の意図はちがう。出勤するのはAさんである。Aさんに出勤を求めている。丁寧に言っているつもりだろうが、やはりおかしい。トポスがずれている、否、ずらしている。意地悪くいえば、自分が前面にでないで第三者を楯に使う卑怯な物言いである。
 この識者は以前何度か触れたことがある(10年3月、「ためさずガッテン」など)。日本語・フランス語教師で、日本語話者に警鐘を鳴らし続けている野口恵子氏だ。女史は近著『失礼な敬語』(光文社新書、先月刊)で以下のように述べている。(◇部分は同書より引用、以下同様)
◇「~してもらってもいいですか」は、依頼の表現「~してください」の敬意の度合いが下がって、命令のようにも聞こえるということで、使いづらくなったためだろう。「~してください」に代わる言い方として、「~してもらえますか/いただけますか」「~してもらいたいのですが/いただきたいのですが」「~してくださいますか」その他いろいろある。それにもかかわらず、皆、申し合わせたかのように、「~してもらってもいいですか/いただいてもよろしいでしょうか」を使うようになった。不思議な現象だ。いや、不思議でも何でもないのかもしれない。言葉はうつるものだし、意識的にほかの人の言葉つかいを真似ることもあるからだ。
 自分が何かをしたいときにその許可を求める「~してもいいですか」の変形であるが、相手の行動を促す表現として用いられるため、紛らわしいだけでなく、傲慢な物言いにもなる。なぜならば、形の上では許可を求めているにもかかわらず、相手に判断を委ねるわけではないからだ。
 「いいですか」と聞かれているのだから、「よくないです」と答えてもよさそうなものだが、それはまず許されない。許可を求めるという下手に出た表現でありながら、暗黙のうちに強制していることになる。◇
 上司が部下にこれを使うと、強制そのものになる。ネタを明かすと、かなり前から荊妻が多用していた。急な用ありを定時外に自宅で受け、シフトをやり繰りする。その電話のやり取りを耳にすることがよくあって、どうもおかしいと気づいていた。それが上掲書でそのまま取り上げられていたのだ。我が意を得たり。高々とこの本をかざし、噛んで含めるように教えを垂れた。恐れ入ったか。へん、ざまー見ろだ。いたく反省した様子で、「その本、貸してもらっていいですか」ときた。まことに救い難い。
 実は、トポスをずらす言い方は前々からある。子供ができると、嫁は姑を「おばあちゃん」と呼ぶ。近年ではお笑い芸人をはじめとして、妻を「嫁」と言う。これも同類だ。迂回戦術か照れ隠しであろう。この程度なら御愛嬌だ。しかし、「暗黙のうちに強制している」とは辛辣だ。慇懃無礼の典型ともいえる。
 『失礼な敬語』とは、巧いネーミングだ。本来失礼を避けるべき敬語が逆効果になるとの謂である。「敬語」について内田 樹氏が卓説を語っている。再度の引用をしてみる。


 「敬」という漢字の原義は「身体をよじる」という意味だ。人間がどういう場合に身体をよじるのかを想像してほしい。足が地面に固着しているときに、何か「危ないもの」が接近してくると、人間は身体をよじる。死球をぎりぎりで避けるバッターの姿を想像すれば分かる。「敬する」とは本質的にそういうことだ。「それから逃れることができないが、じかに接触してはならないもの」とかかわること、そのときのマナーを古代の中国人は「敬」という字に託した。「敬語」というのは、「自分に災いをもたらすかもしれないもの」、権力を持つもの(その極端な例が鬼神や皇帝だ)と関係しないではすまされない局面で、「身体をよじって」、相手からの直接攻撃をやり過ごすための生存戦略のことだ。(「街場の現代思想」から)


 とすれば失礼な敬語とはさしずめ、よじり過ぎて転んだか、腰を痛めたことになろうか。同書では他に、
 「よろしくお願いします」「~いただきます」「させていただく」の多用
 「れ足す」「さ入れ」「を入れ」などの余計な一文字
 「~れば」「大丈夫」の怪
などについて鋭い指摘がなされている。言葉は世に連れるものとの言い分もあろうが、女史はこう語る
◇誤用が大手を振って歩き始めたのは、信号で言えば、ある日突然、黄色信号を青信号と同じものと見なすことになったのと同じだ。そうなると、そのうちに赤信号も青信号と同じ扱いになる。「交差点に好き勝手に進入して、あとは適当にやってください」と言われたようなものだ。待ち受けるのは、目を覆う光景である◇
 頂門の一針といわねばなるまい。赤信号、みんなで渡ればなお怖い! □