伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

なぜ笑う?

2013年07月15日 | エッセー

 こんな片田舎にも、時として文化の風が吹く。先日、人間国宝・野村万作、萬斎による狂言の公演があった。演目は、「六地蔵」と「附子(ブス)」の二題。会場は満席、二時間に亘り古典芸能の薫風に浸(ヒタ)った。というより、浜辺で聴く潮騒のような笑いが何度も繰り返した。面白いというより、可笑しい。そのはずだ。六百年前の、いわばどたばたコメディーである。
 「六地蔵」は田舎者が都の詐欺師に欺されかける話、「附子」は使用人が主人を手玉に取る話である。前者には都鄙の差別と狡智を破る凡知が、後者には即妙の取り繕いに権威への反撥が含意されていよう。
 鍛え上げられた野太い声と隙のない所作、足拍子は絶妙な効果音だ。まさにどたばたの音だ。能と二つで悲喜劇の両面を担う。それにしても遙か古(イニシエ)の笑劇が、今なおなぜ笑いの波を起こすのだろう。それは人間の奥深いありように材を採っているからではないか。
 当今、純真を弄ぶ詐欺は電話を使って横行する。“狂言”強盗そのものだ。権威、権力との相克は史上常に今日的課題であった。笑うに笑えず、笑えぬが笑ってしまう世に棲む人の性(サガ)。それを抉るから、この芸能は時空を超えたのではないか。はじめの自己紹介『このあたりの者でござる』は、匿名で事を普遍化する工夫ではないか。はたして今を時めく「お笑い」がどれほどの余命をもちうるか。こちらは単に“クレージー”なだけではないか。それも世のありさまといえなくもないが。彼我を商量しつつ、家路についた。 □