伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

追記 2話

2013年07月26日 | エッセー

 凡夫の知恵は後から顔を出す。アップ・ロードしてから、あれもこれもと書き足らなかった愚案が顔をだす。まあ、さしたる内容でもないのだが、蔵ったままでは寝覚めが悪い。よって、追記したい。
 
 まずは今月15日の「なぜ笑う?」から。
 近頃寅さんに扮したというか、擬したリチャード・ギア出演のテレビCMが流れる。数パターンあるが、いずれも舞台はフランス。
 例のカバンを提げ、これまたいつものスーツを羽織って、男が駅に降り立つ。あの曲が流れ、物語がはじまる。といっても、わずか30秒そこそこ。場面はレストランへ。ウエイトレスのウインクと投げキッスに、彼は何度もお返しを送る。だが、実は後ろの席にいるボーイフレンドへの秋波だった。早とちり、勘違いである。見ていた子供(満男?)が大笑いする。巧いというか、憎い造りだ。
 またしてもレストラン。秀麗なる美人に贈った飲み物を、託されたウエイターがあろうことか別席の秀麗ならざるおばさんのところへ。またしても子供が大笑い。エンディングはおばさんと三人連れでどこへやら。
 フランス産の炭酸飲料らしい。だから、『ムッシュはつらいよ』とタイトルが浮かび、『さすらいのTORA』と連なる。山田洋次監督が試写を観てお墨付きをくれたそうだ。
 なぜ、笑う? そこには、48作に及ぶ長遠なシリーズで延々と繰り返されてきた寅の恋路、その起承転結が極限にまで凝縮されている。不動の失恋パターンだ。
 寅さんについては何度も語ってきた。本ブログの主要テーマの一つでもある。しかしそれにしても、“TORA”には意表を突かれた。このCMの見事さは換骨奪胎の巧みさにある。憎いほどだ。際立つのはギアの起用。その容姿において、寅とは対極にある人物だ。TORAである。しかし立派に、寅だ。この不思議さはどうであろう。狂言も同じドタバタ・コメディーである。人間の性(サガ)に食い込んだストーリーがおかしみを誘(イザナ)う。それは措く。問題は不易の型だ。鋳型に溶かした材料を流し込めば同じものを再生産できるように(もちろん粗悪な材料では不適だが)、練り上げられた笑いの型がある。それが600年の狂言であり、48作の長寿シリーズではないか。能を起源とする狂言も、顔は面として扱い表情は作らない。だから、TORAが寅にメタモルフォーゼできる。そこを突かれた。まことに鮮やかだ。

 第2話は、昨日の「永続敗戦」。
 白井氏の著作には書かれていないのだが、高市早苗政調会長発言に言及するのを忘れていた。先日、彼女は村山談話を「しっくりこない」と違和感を表明した。さらにかれこれ十年前、彼女は「私は戦後に生まれたので、戦争責任を謝罪しろと言われても、私に謝る義理はない」と発言したことがあった。双方とも同類の言説といえる。戦争に加担していない者までが、いつまで謝罪の責を負うのかということだ。振り返ると、サンデル教授の白熱教室」にも同じ質問があった。
 「永続敗戦レジームがある限り、謝罪は要求され続ける」が、白井氏の論攷から導出される応えだ。敗戦を否認する(負けていない)以上、謝罪の必要は生じない。謝罪がない以上、それは要求され続ける。それが当然の理路だ。
 加えて、いつもエクスキューズにされるのが「戦後に生まれたので」というフレーズである。これについては内田樹氏の考究を引こう。
◇全員が共犯関係にある、というのが、国民国家における国民の有責性のあり方です。だからたとえば、戦時中の共産党員が、「私はその時戦争に反対して投獄されていたから侵略戦争に対して責任はない」ということもほんとうは言えないんだと思います。国家の行動に対しては、全員が何らかの形で責任を負っている。国民国家の行なったことについて「手が白い」国民は一人もいないんです。国民全員の政治的な行動の、あるいは非行動の総和として、国家の行動というものがあるわけですから、全員がそこにはコミットしている。だからそのコミットメントの、自分の「持ち分」に関してはきっちり「つけ」を払っていかなくてはならない。ナショナリストは国家の犯した罪を決して認めないし、左翼の人には国家の犯した罪の自分たちもまた「従犯」であるという意識がありません。◇(「期間限定の思想」から)
 こうまで真っ正面から痛打を食らうと、気も晴れ晴れとする。「『手が白い』国民は一人もいない」と解れば、「自分の『持ち分』に関してはきっちり『つけ』を払っていかなくてはならない」覚悟もできよう。時間軸に置き直しても同様ではないか。過去の国家と繋がらない国民は一人もいないはずだ。少なくとも「永続敗戦」の中に生まれ、育ったことだけは確かだ。それだけで「有責性」は充分ではないか。 □