「皆さんご覧ください。家が軒並み見事に壊されています」
カチンときた。「見事に」とはなにか。それは褒め言葉ではないか。
93年7月13日夕方の民放ニュースで、奥尻島に入った若手アナウンサーがそう声を張り上げた。すぐに放送局に電話し、担当者に苦言を呈した。
約10分後、東京のアンカーが「先程現地からのレポートで、不適切な発言がありました」と詫びた。なかなか対応が早い。感心しつつやがて、エンディングに。再び現地から。また件のアナウンサーが出てきて、「見事に」を繰り返した。ああ、と空(クウ)を睨んだ。寸意は現場には届いていなかったのだ。
北海道南西沖地震から20年が経つ。あのレポーターはどうしているだろう。すでに中堅どころか。地震の教訓は措くとして、言葉についてだ。
逆ではあるが同類といえるものに「ヤバイ」がある。矢場からきた言葉だが、危険の謂から強い驚きに転じ、「この味、ヤバイ!」などと使う。これはなんとか合点がいくが、「見事」はどうにもいけない。ましてや民放といえどもアナウンサーだ。言葉を生業とする職業だ。模範であるべきだ。そんな真似事のような義侠から、大きなお世話を焼いた。
柳田国男に倣うと、晴(ハレ)と褻(ケ)が無分別になっていることが背景の一つかもしれない。晴が日常化している。晴が限りなく褻に近接しているともいえる。飲食は歴然たるもので、祭でしか供されなかった食い物が今やスーパーでパック詰めで並んでいる。コンビニに行けば、24時間世界の酒が飲める。衣服はカジュアル化して、クールビズと称して国会でさえノーネクタイだ。だからであろうか、最近は婚礼がとびきり豪華になっている。ゴージャスな会場で、グルメ三昧。カップルの登場は空中から。そうでもしなければ、晴が際立たないのである。
昨今の敬語問題も、如上の逆転現象といえなくもない。家族が友達化し、フォーマルでの言葉遣いなど身につけずに育った世代が直面しているともいえる。つまりKYだ。先人は「すり鉢」を「当たり鉢」というように、反語を使ってまで忌み言葉を避けてきた。そのデリカシーはもはや消えたのであろうか。
さらに蛇足を描く。
日本語の起源は縄文時代以前に遡るという。さまざまな言語が混淆したピジン語だそうだ。最近の調査によれば、日本人のDNAには実にさまざまな民族の混血が視られるらしい。多民族が交わればとりあえずのピジンが生まれる。そして弥生人の渡来。飛鳥に始まる中国文化の受容。永い熟成を経て、明治の文明開化。西欧の流入。さらに敗戦と、当今のグローバリゼーション。今またピジン化の渦中にあるともいえよう。となれば、1万年を越えた先祖返りか。その巨大なカオスの中で玉石が混淆されている。そんな括り方もできるのではないか。
もちろん、言葉は世に連れる。大きく肯んじ、おもしろがる向きもある。しかし水面下の氷山を忘れてはならない。社会も人心も動いている。それを掴まねば、見事とはいえない。 □