伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『永続敗戦』

2013年07月25日 | エッセー

 今のところ真正なる世界政府はない。だから、国家権力が最強といえる。しかし、その国家権力を超える力が二つある。一つは別のより強大な国家権力、もしくは複数の他国によるより強大な集団である。もう一つは国土を破壊するほどの自然災害だ。都市レベルではあるが、ポンペイの例もある。ハリウッドの大作はこの類いが目白押しだ(同国にとっては他国や他国の連合軍に侵略される可能性よりもエイリアンの襲撃がよほど現実的なのかもしれない)。日本では前者は太平洋戦争、後者は3・11を想起できよう。
 言葉を理解するには、対語をリファレンスするといい。かつて大本営は退却を「転戦」と言い繕った。退却の対語は前進である。退却・前進は戦果を直截に表す。転戦の対語は局地戦、集中的攻防であろうか。これは戦術に属す。なんともあざとい。
 8・15を「終戦記念日」という。「終戦」は開戦と対をなす。経緯を表しているにすぎない。「敗戦」は戦勝の対語だ。こちらは結果をいう。終戦と敗戦には途方もない懸隔がある。あざといどころか、欺瞞に満ちている。
〓1945年以来、われわれはずっと、「敗戦」状態にある。
 『永続敗戦』 それは戦後日本のレジームの核心的本質であり「敗戦の拒否」を意味する。国内およびアジアに対しては敗北を否認することによって「神州不滅」の神話を維持しながら、自らを容認し支えてくれる米国に対しては盲従を続ける。敗戦を否認するがゆえに敗北が際限なく続く──それが「永続敗戦」という概念の指し示す構造である。今日、この構造は明らかに破綻に瀕している。〓
 白井 聡著「永続敗戦論」(太田出版、本年3月刊)の帯にはそうある。奇妙なタイトルだが、敗戦状態がそのまま続いているということだ。敗戦を隠すために「終戦」と言い繕ってきた。大本営と同じである。著者は今年36歳、気鋭の政治学者だ。
 「敗戦」の次に来るものは「占領」であり、戦勝国への「従属」である。つまり、『永続敗戦』とは「占領」と「従属」が際限なく続いている状態だ。米軍基地、とりわけ沖縄が「占領」を、日米関係が「従属」を表徴する。
 さらに「今日、この構造は明らかに破綻に瀕している」その象徴が3・11であるという。戦後のエネルギー政策はもとより安全神話、旧来の産業や政官財の構造が「根源的な見直し」を迫られているとまでは料簡していたが、それではまだ浅い。彼はこう述べる。
◇あの地震・津波と事故は、「パンドラの箱」を開けてしまった。「戦後」という箱を。それは直接的には、「平和と繁栄」の時代が完全に終わったことを意味し、その逆の「戦争と衰退」の時代の幕開けを意味せざるを得ないであろう。それは同時に、これまでの「戦後」を総括する基本的な物語(=「平和と繁栄」)に対する根源的な見直しを迫るものとなる。◇(◇部分は同書より引用、以下同様)
 「戦後」というパンドラの箱は「平和と繁栄」によって固く閉じられていた。その蓋を3・11が開け放って、現出したものが『永続敗戦』という戦後日本の核心であった。そう彼は断ずる。
 理路は深く、舌鋒は鋭い。大将首を追って戦場を駆ける抜き身を引っ提げた若武者、とでも言おうか。

 戦後民主主義に対しても容赦はしない。
◇戦後日本においてデモクラシーの外皮を身に纏う政体がとにもかくにも成立可能であったのは、日本が冷戦の真の最前線ではなかったために、少々の「デモクラシーごっこ」を享受させるに足るだけの地政学的余裕が生じたからにほかならない。この構図にあてはまらない、言い換えれば、戦略的重要性から冷戦の真の最前線として位置づけられたのが沖縄であり、ゆえにかの地では暴力的支配が返還以前はもちろん返還後も日常的に横行してきた。日本の本土から見ると沖縄のあり方は特殊で例外的なものに映るが、東アジアの親米諸国一般という観点からすれば、日本の本土こそ特殊であり、沖縄のケースこそ一般性を体現するものにほかならない。東アジア政治史研究者のブルース・カミングスは、「朝鮮半島がすべて共産化したと仮定した場合には、日本の戦後民主主義が生きつづけられたかどうかも疑わしい」と述べているが、これこそ、われわれが見ないで済ませようとしてきた(そして、沖縄にだけは直視させてきた)事柄にほかならない。◇
 抜き身の一閃だ。「日本が冷戦の真の最前線ではなかった」機運は、「朝鮮半島がすべて共産化した」場合の対極である。「デモクラシーの外皮」はそのような歴史的僥倖が招来したものだ──。
 団塊の世代から数世代(二世代か?)を跨ぐと、これほど皮膚感覚が違うものか。戦前・戦中を潜った世代が、団塊の世代に毛穴から染み込ませた戦後デモクラシーへのキラキラとした高揚感。それはもはやない。いや、感覚ではない。パースペクティヴがそもそも異なる。冷徹な追究。まさに抜き身だ。

 白刃は憲法改定へ向かう。
◇平和憲法の改定によって敗戦のトラウマを払拭すること、言い換えれば、「敗戦の否認」をやり遂げること。これが実現されるとき、「戦後」は「清算」されると同時に「完成」する。◇
 一刻も早くトラウマを消したい。改憲勢力の動機とはそれだ。
 内田 樹氏の記号についての洞見を借りれば、現行憲法は「戦後の記号」といえよう。内田氏は「記号とは『それが何であるか』ではなく『それが何でないか』をいう」とする。彼の勢力にとって、現行憲法は戦前的価値観ではないものとして前景化している。だから日本文化の連続性を阻害するものとして、アイデンティティ論議が必ず纏わりついてくる。
 憲法改定は「敗戦の否認」を完遂させる。『自前』であれば敗戦の汚名を返上できる。白を切り通して(負けてないと言い続けて)、逃げ果せる(今までのこと<=戦後>は結果オーライ)。「清算」と同時に「完成」とはその謂だ。
 しかし大方が改憲の根拠を『押し付け』に求めるのは、敗戦を前提にした言説ではないか。『押し付けられた』と言えるためには、敗戦『しなければならない』。だがこれはアンビヴァレンツを生む。では、どうするか。その事情を彼はこう抉る。
◇事あるごとに「戦後民主主義」に対する不平を言い立て戦前的価値観への共感を隠さない政治勢力・・・・彼らの主観においては、大日本帝国は決して負けておらず(戦争は「終わった」のであって「負けた」のではない)、「神洲不敗」の神話は生きている。しかし、かかる「信念」は、究極的には、第二次大戦後の米国による対日処理の正当性と衝突せざるを得ない。それは、突き詰めれば、ポツダム宣言受諾を否定し、東京裁判を否定し、サンフランシスコ講和条約をも否定することとなる(もう一度対米開戦せねばならない)。言うまでもなく、彼らはそのような筋の通った「蛮勇」を持ち合わせていない。ゆえに彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く。それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。◇
 つまりアンビヴァレンツを解消するには、方法は二つ。「もう一度対米開戦」する「筋の通った『蛮勇』」(勿論、戦勝が必須である)を振るうか、「いじましいマスターベーターと堕」すかだ。後者の結果として「永続敗戦レジーム」が成立した──。

 粗粗は先日の本ブログ「貧乏神と賢人二人」で紹介した。領土問題をはじめ論点は多岐に亙る。後世畏るべし、否、今すでに畏るべしである。
 ところで、読んでいるうちになんだか懐かしくなってきた。白井氏の父は元早大総長、自身も同大出身だ。この猛々しさは明証できないが東大とはちがう。いかにも早稲田だ。スチューデント・パワーが吹き荒れた喧噪の中で聞いたかつての口吻。苛烈な議論が切り結ばれ咆哮が行き交った日々。中身は違うが、60年代末の疾風が吹き過ぎたかのようだった。
 括りに、彼はガンジーの言を引く。
「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」
 独立運動に向けた呼びかけであろう。白井氏の論究も、「世界によって自分が変えられない」ために違いない。 □