伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

貧乏神と賢人二人

2013年07月07日 | エッセー

 下り坂に腰を押すつもりはないが、かつて語ったようにこの男は紛れもなく貧乏神だ。
 先月の東京都議選、武蔵野市で民主現職の松下玲子氏が落選した。接戦の末、自民の新人に敗れた。ここは「民主王国」といわれるほどの民主党の牙城。この男の地元でもある。付きっ切りで応援したが、結果はこの通り。やはり貧乏神だった。
 今般の参院選、東京選挙区では民主党は候補を1人に絞った。劣勢を考えての差配であろう。ところが、外された現職が無所属で立候補した。党の正式決定に抗っての行動だが、またもこの男が追従した。そこで、次の記事となる。
〓民主・細野氏「菅さん黙ってて」 大河原氏支援に不快感
 民主党の細野豪志幹事長は5日、菅直人元首相が参院選東京選挙区で党公認を取り消された大河原雅子氏の支援を表明したことについて「菅氏は代表経験者。立場を踏まえて行動してほしい。しばらく黙っていてほしい」と不快感を示した。東京都内で記者団に語った。
 民主党は東京選挙区での共倒れを避けるため、公示直前に公認を鈴木寛氏に一本化した。一方、菅氏は5日の自身のブログで「昨日は大河原さんの出陣式に参加。公認を外された悔しさをばねに頑張っている」と書き込んだ。〓(7月6日付朝日新聞)
 「公認を外された悔しさ」とは、一体なんという言い草だろうか。党の正式決定の場にいたかいなかったは別にして、「代表経験者」である以上少なくともこの男は党の『公』側にいるのではないか。この党には意味不明の言動を繰り返す別の「代表経験者」もいるが、こちらは離党しているのでそれなりに筋は通っている。片や自民党には引退後堂々たる闇将軍はいたが、こんなゾンビのなりそこないはいなかった。政治上の功罪は措くとして、退いた後はそれぞれに高風であったといえる。
 それはともかく、上記の記事を読んで刹那に蘇った記憶がある。10年6月、3年前だ。この男が組閣した時に吐いた言葉。
「小沢さんはしばらくの間静かにしてもらう」
 まさに因果応報、自業自得とはこのことではないか。昨年小選挙区で落ちて比例区で復活。首相経験者として、まったくみっともない。まともな感覚では比例当選は辞退すべきだろう。その前に、重複立候補はしない。貧乏神から疫病神へ、さらに死に神へ。とどのつまりがゾンビのなりそこないか。

 気が滅入りそうだから、話柄を転じる。後生畏るべし、否、今すでに畏るべしについて。(実はこのフレーズ、かつて使った)
 白井聡。若干36歳、新進気鋭の政治学者だ。父親は早稲田大学前総長・同大名誉教授の白井克彦氏。戦後の日本を問い、「永続敗戦」を提起している。先日(7月3日)、朝日新聞に登場した。核心部分だけをピックアップしてみる。
〓「そもそも多くの日本人の主観において、日本は戦争に『敗けた』のではない。戦争は『終わった』のです。このすり替えから日本の戦後は始まっています。敗戦を『なかったこと』にしていることが、今もなお日本政治や社会のありようを規定している。私はこれを、『永続敗戦』と呼んでいます」
 「だからアメリカに臣従する一方で、A級戦犯をまつった靖国神社に参拝したり、侵略戦争の定義がどうこうと理屈をこねたりすることによって自らの信念を慰め、敗戦を観念的に否定してきました。必敗の戦争に突っ込んだことについての、国民に対する責任はウヤムヤにされたままです。戦争責任問題は第一義的には対外問題ではありません。対内的な戦争責任があいまい化されたからこそ、対外的な処理もおかしなことになったのです」
 「昨今の領土問題では、『我が国の主権に対する侵害』という観念が日本社会に異常な興奮を呼び起こしています。中国や韓国に対する挑発的なポーズは、対米従属状態にあることによって生じている『主権の欲求不満』状態を埋め合わせるための代償行為です。それがひいては在特会(在日特権を許さない市民の会)に代表される、排外主義として表れています。『朝鮮人を殺せ』と叫ぶ極端な人たちには違いないけれども、戦後日本社会の本音をある方向に煮詰めた結果としてあります。彼らの姿に私たちは衝撃を受けます。しかしそれは、いわば私が自分が排泄した物の臭いに驚き、『俺は何を食ったんだ?』と首をひねっているのと同じです」
 「被害者意識が前面に出てくるようになったきっかけは、拉致被害問題でしょうね。ずっと加害者呼ばわりされてきた日本社会は、文句なしの被害者になれる瞬間を待っていたと思います。ただこの被害者意識は、日本の近代化は何だったのかという問題にまでさかのぼる根深いものです」
 「江戸時代はみんな平和にやっていたのに、無理やり開国させられ、富国強兵して大戦争をやったけど最後はコテンパンにたたきのめされ、侵略戦争をやったロクでもないやつらだと言われ続ける。なんでこんな目に遭わなきゃいけないのか、近代化なんかしたくてしたわけじゃないと、欧米列強というか近代世界そのものに対する被害者意識がどこかにあるのではないでしょうか。橋下徹大阪市長の先の発言にも、そういう思いを見て取れます」〓
 「『主権の欲求不満』状態を埋め合わせるための代償行為」とは、身震いするほど深い洞見ではないか。靖国、侵略定義、慰安婦、歴史認識、中・韓、ヘイトスピーチ、それらのリゾームを見事に剔抉している。穎才の出現といえる。「維新」のネーミングがあべこべであると何度か指摘したが、白石氏の考究も橋下発言に維新『前』を嗅ぎ取っている。やはりあべこべ、オーパーツだ。

 もう一つ。先月29日に(2013参院選)「批判の声はどこに行ったか」と題して、作家・橋本 治氏が朝日新聞に寄稿していた。要約してみる。
〓安倍政権が高い支持率を得ている理由はいたって分かりやすくて、この内閣がその目標を「景気回復」の一点に絞っているからだ。
 はっきりしているのは、日本人の関心が「景気回復」に集中していて、内閣の思惑に反して、「憲法改正」への関心も問題意識も高くはない。安倍内閣を支持する日本人の過半数は、「景気がよくなること」にしか関心がないのだ。
 この内閣に対する表立った批判の声がほとんど聞こえて来ない理由を考えると、あっけに取られてしまう。「アベノミクス」を言って展開する内閣を批判することは、「あなたは景気回復を望まないのか?」と問われてしまうことにつながるからだ。誰がそれを言うわけでもない。なんとなくそんな雰囲気になっていて、口がつぐまれてしまう――そのような構造になっているとしか思えない。
 だから、値上がりした株が乱高下を始め、円安の事態がストップして逆転を始めれば、「アベノミクス」に対する批判の声が上がる。しかしだからと言って、「アベノミクス」が失敗したとして、それ以外に日本人が望む景気回復を実現させる方策があるのかと言ったら、これまた分からない。安倍首相の失政を望む声があったとしても、その声の主に「じゃ、景気回復を望まないのか?」と問えば、おそらく「望まない」という声は返って来ないだろう。
 もう一度「どうして日本から時の政治に対する批判の声が上がらなくなったのか?」を考える。それはもしかしたら、敗退した民主党政権のせいではないかなどと。
 政治の世界では「実効性のない理屈ばっかり言っていてはだめだ」になって、だからこそひたすらに威勢のいいことを言う新政党も出現した。安倍内閣の「すぐやる課」的な矢継ぎ早な実行力も、「言うだけじゃだめだ」的な雰囲気の反映だろう。だから、「批判するだけじゃだめだ」という空気が広がって、言論は後退してしまったんじゃないだろうか。
 しかし、国民は政治家とは違う。政治家なら「批判するだけじゃだめだ」は通っても、国民に「批判するだけじゃだめだ。対案を出せ」というのは無理な話だろう。国民というのは、「政策は政策として、でもなんかへんじゃないの? 疑問を解決してほしい」と政治家に言えるもので、政治家はその声を聞いて事態の改善を図るべきものだ。だからこそ、うっかりと国民の声を聞いてしまう安倍内閣は、したい「暴走」をせずに微妙な踏み止まり方をする。
 その点で、批判の声はちゃんと生きている。だから「言うだけじゃだめだ」などという声を怖れずに、言うべきことは言うべきだと思う。言うべきことが足りないから、なんだかよく分からない状況になっているんじゃないだろうか。誰もが口を開くネット時代になったんだから、もう少し「言うべきことはなんだ?」と考えるべきなんじゃないだろうか。 〓
 いつに変わらぬ独自で深くかつ鋭い視線だ。「うっかりと国民の声を聞いてしまう安倍内閣は、したい『暴走』をせずに微妙な踏み止まり方をする」などは、さすがに巧い。「うっかりと」とは言い得て妙、この宰相の向こう気の強さと内蔵する脆さを絶妙に言い表している。
 コラムニストの天野祐吉氏はこの橋本発言を受けて、「いまこの国は景気さえよくなれば、憲法を変えようが原発を再稼働させようが『ええじゃないか、ええじゃないか』の空気にあふれている」と自身のコラム(朝日[CM天気図」)で綴っている。だからこそ、「『言うべきことはなんだ?』と考え、「言うべきことは言うべきだ」。なぜなら「国民というのは」「へんじゃないの?」「と政治家に言えるもの」なのだから。
 年間予算を有権者数で割ると、ざっと90万円。掛ける6年分で、優に500万を超える。話題のGNI=280万(昨年)に倍する相当な高額だ。予算決定権は丸々ないにしても、歳費で計算すると参院半数で6年間分は約240億。有権者1人で、240万円になる。いずれにせよ、21日には、「言うべきこと」を大枚の金子に相当する紙片に託す。徒や疎かにはできない。 □