伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「一億総ガキ」化

2010年11月29日 | エッセー

 08年11月19日付本ブログ「『だれでもいい』と『どうでもいい』の間」で、無差別殺人に触れた。
〓〓このような事件が起きた場合、原因を個人に特化して事足りてはいけない。たとえ微細であろうとも自らも背景の一角を占めていることを忘れるわけにはいかない。異端視して放擲しても、この国はいっかな変わらない。病巣を抱えたまま彷徨うだけだ。すぐさま解が見つかるわけでも、策が打てるわけでもない。だが「想像力」を振り絞り、わが身に引き寄せるべきではなかろうか。次代のためだ。万物の霊長たる者の厳かな使命だ。人類の歩みは、失敗の数ほど克服を重ねてきたはずだ。拱手傍観、「どうでもいい」は責任放棄だ。
 原因は根深く多岐にわたり、かつ錯綜している。一刀両断の処方はない。とかくこういう場合に語られる歯切れのいい解決策とやらは眉唾物である。四捨五入した単純化は危険でさえある。二者を択一するがごとき二元論はなおさらだ。
 いつものことだが、軍事教練の復活を声高に唱える向きがある。これは短絡、もしくは思考停止に近い。
 腰を据えて原因を見つけ、一つ一つを丹念に分析し、プライオリティーを付け、衆知を集めて手立てを考え、果断に実行する。病の処方と同じともいえる。社会も同じく病んでいるのだから。〓〓(抄録)
 先日、「病巣」を捉える有力な投網を見つけた。極めて示唆に富む好著である。

  一億総ガキ社会 ―― 「成熟拒否」という病(光文社新書、本年7月発刊)

 著者は精神科医の片田 珠美氏。著書に『17歳のこころ』、『攻撃と殺人の精神分析』、『こんな子どもが親を殺す』、『薬でうつは治るのか?』『やめたくてもやめられない ― 依存症の時代』、『無差別殺人の精神分析』などがある。

 一国が「ガキ」のようになっている。いな、「ガキ」を抜けきれていない。これが主張だ。論点は以下の三つに要約される。

①「打たれ弱い」という病
②一億総「他責的」社会
③依存症 ―― 自己愛の底上げ

 ①については、不登校 引きこもりが代表例であろう。要因として真っ先に挙げているのが「けがをさせない教育」である。前方の障害物を取り除くカーリングに譬えて「カーリングペアレント」と呼ぶそうだ。近年瀰漫する「打たれ弱い」という病状と病理を明らかにしていく。

 ②の「他責」とは、原因と責任を他に転嫁し咎め立てることだ。自責の対極である。詳説は本文に委ねるとしてやや図式的にまとめると ―― 
 戦後民主主義社会「規範からの解放」 → すべて自分で → (ところが)自分は空っぽ → (おまけに)「あきらめるな!」「すべて可能」という煽り → 自己愛的な万能感の肥大 → 現実の自分とのギャップ → うつ・ひきこもり 又は 責任転嫁「他責」へ
 ―― となろうか。そこで語られるのが、「誰でもよかった」殺人・秋葉原事件である。
「『他責的』であるがゆえに引き起こす究極の犯罪が『誰でもよかった』殺人である。」とする。以下、抄録。
〓〓自己愛的万能感と自己評価の深刻な乖離に直面して悩むのは、思春期・青年期によくあることだ。そこから成熟して大人になるということは、ある意味では自己愛の傷つきの積み重ね、つまり誇大的な自己イメージを喪失していく「断念」の過程でもある。しかし、無差別殺人犯の多くは、その過程を頑なに拒否している。それゆえ、自己愛的イメージと現実の自分のギャップにぶつかって「こんなはずではなかった」と感じたとき、悩んだり、落ち込んだりするのを避けようとして、他者に責任を転嫁するわけである。
 ほとんどの無差別殺人犯には、もう一つの要因が顕著に認められる。「投影」である。「投影」とは、自分の内部にあることを認めたくない資質、衝動、感情、欲望などの「内なる悪」を、外部に投げ捨て他者に転嫁しようとする心の働きである。この「投影」が働くのは、「内なる悪」を自分自身で引き受けることに耐えられず、外部に追い払い、消そうとするからである。「誰でもよかった」という動機から無差別殺人を引き起こすのは、この投影ゆえである。これは、赤の他人を道連れにした「拡大自殺」にほかならない。〓〓
 「拡大自殺」とは鋭い。あれは他人を殺すことによって、必死に自分を殺そうとしていたのだ。その意味で、「代理自殺」ともいえる。「病巣」はかなり輪郭を現したといえる。

 ③の中では、「サイキック・ビル ―― 存在の医薬品化」が圧巻だ。サイキック・ビルとはボディー・ビルのもじりである。人体を人工的に造り上げるように、内面にも人為を加えようとする動向だ。スポーツ界がドーピングに塗れるように、「人生につきものの心の苦悩にまで体系的に投薬することによって『存在の医薬品化』を推し進めている」状況がすすむのか。切実な問いかけがなされる。

〓〓我々にとっての「失われた対象」 ―― 富にせよ、地位にせよ、自己愛的イメージにせよ ―― を直視できるか、どうか。「失われた対象をきちんと認識しない限り、真の再生は果たせない」のは、精神科医としての臨床経験から常々感じていることだが、個人だけでなく、社会にも国家にも当てはまる真理なのではないか。〓〓
 これは本書の基調であり、結論部分である。だれびとの人生にあっても、「失われた対象」すなわち「対象喪失」は避けられない。幼少期からの「自己愛的万能感」の喪失に始まり、それとの折り合いをつけ続けるのが一生といえる。当然のことながら、最大の「対象喪失」が最後にやってくる。
 そこで、紹介されるのが「キューブラー・ロスの『死の五段階』説」である。
〓〓死に瀕している患者二〇〇人以上にインタビューした臨床経験にもとづき、末期患者は、
  第一段階 否認
  第二段階 怒り
  第三段階 取り引き
  第四段階 抑うつ
  第五段階 受容
の五つの段階を経て、ようやく死という最大の対象喪失を受容する段階に到達するのだと述べている。〓〓
 死に限らず、この五つのステップが十全に踏まれ得ないために前記の ① ② ③ に至るのである。
 さらに「対象喪失の原点は『乳離れ』」であるとし、極めて興味深い考察が紹介される。授乳期間中に母親が赤ん坊の元を離れて、乳房が遠ざかる。そこに対象喪失の原型がある。同じ乳房が、(二つのそれぞれがという意味ではなく、二つ併せて)「良い乳房」と「悪い乳房」に分裂する。そのせめぎ合いが事の起こりだというおもしろい説だ。

 また、以下の指摘も重い。
〓〓なぜ対象喪失を受け入れられなくなったのか? まず、何よりも人生における最大の対象喪失である「死」に遭遇する機会が減ったことが挙げられよう。
 わが国は世界一の長寿国になった。我々はまさに医学の進歩の恩恵に浴しているわけだが、皮肉なことに、この変化こそが、死への恐怖感を高めた。また、死をはじめとする対象喪失にどう対処していいかわからない人々を増加させる一因となった。死という究極の対象喪失に出会う機会が減ったことによって、対象喪失に対する免疫ができにくくなったことは否めない。
 核家族化によって、子どもが祖父母の死に立ち会う機会は激減した。おまけに、以前は自宅で家族に看取られながら最期の時を迎える人が多かったが、いまや、ほとんどの人が病院でたくさんの管につながれたまま心停止を宣告される。そのため、死もまた人生の一部なのだということを学ぶ機会はなくなったのである。〓〓
 
  かつて大宅壮一はテレビ時代を「一億総白痴化」と言い表した。「一億総ガキ社会」はその伝であろう。だが、こちらの方がより根深い。「餓鬼」とは際限のない飢えと渇きの苦悩をいう。「ガキ」を抜け切らないいことには、待つのは餓鬼の断末魔ばかりであろう。□