伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

黄門と馬場の間

2010年11月01日 | エッセー

 近所で目にする看板にヒントを得て、『水戸肛門』科を探すという話が浅田次郎御大のエッセー(小学館「つばさよ つばさ」)に出てくる。結局見つからず、ならばと近回りの『ダスキン玉川』を捜し当てて大いに溜飲をお下げになったという顛末。なんとも『笑』撃的作品である。(以前、名前だけ紹介した)
 このようなこだわりは職業的特性を超えたパラノイア、あるいは一種の疾病であろう。恐れ多いが、今回は御大の後塵を拝してみたい。
 ―― 水戸黄門とジャイアント馬場との間を探る。
 前稿のコメ・レスからの発展的飛躍である。飛躍はいいにして、なにが発展なのか自分でも解らぬままに書いている。

 馬場がテレビドラマ「水戸黄門」の大ファンだったというのは正確ではなく、「黄門」しか観なかったのが実態らしい。放映分はすべてビデオ録画していたそうだ。こちらもパラノイアの臭いがする。「黄門」の何が馬場の琴線に触れたのか。
 お銀さんはおそらく例外扱いしたであろうが、風車の弥七やうっかり八兵衛などのキャラの強い脇役は好まなかったらしい。初期作品の単純明快な勧善懲悪を善しとしたそうだ。ドラマツルギーとしては、プロレスも同様にヒールが必要だ。最強決定戦も沸くが、極悪非道なヒールとの因縁、怨恨試合はなお沸いた。リングと同じくヒーローとヒールの『(脳天唐)竹』を『割』ったように簡明な対決を望み、枝葉(エダハ)を付けるのを嫌ったのだろう。
 プロレス世代である筆者個人としては、やはりK-1よりプロレスだ。長じてその「ドラマ性」にいよいよ飽いたころ出てきたK-1は鮮烈で、抜き差しならぬ迫真性を感じた。スピーディーで、時代の風にも合っていた。格闘に特化したリングに嵌まりもした。しかし今となっては、やはりK-1が捨象した「ドラマ性」が懐かしい。
 「ドラマ性」とは、生の八百長を意味しない。どこまでがそれで、その先からがそれではないのか。あるいは全くそうではないのか、全くそうなのか。模糊たる作り物らしさ、うそっぽさ、もしくは本物らしさを指す。ヒールとの対決があり、『血』が流れ、場合によっては傷害にも及び、場外乱闘があり、離反があり野合があり、怨恨や因縁が生まれ、規格ちがいの巨人や怪人、正体不明の覆面が登場し、かつ興行がつづくというプロレスのありよう全体をいう。
 振り返ると、馬場よりも猪木が好みだった。猪木は派手だし、工夫があった。比するに、馬場は鈍重で体躯のみで勝負をしているように見えた。見栄えのいい技も、どっと沸くパフォーマンスもなかった(眉庇のようにして「ぽぉ!」はあったが、意図したパフォーマンスとはいえない)。勝ったというより負けなかった、相手が自滅しただけのような印象だった。だが、若気の至り。そこに込められた深謀遠慮が見抜けなかった。
 黄門様は旅の隠居、ただのじじいにしか見えない。いや、共を従え大きな面をしてどう見ても徒者ではないのに、ただのじじいを演じる。やはりというか、ところが実は「先の副将軍……」と、これが最大のドラマツルギーである。
 片や、ず抜けた大男である。しかしあばらは剥き出し、腕は不釣り合いに細い。つまり、独活の大木である。総身に知恵どころか、滋養が回りかねているのではと心配になる。ところがどっこい、負けない。やたらに強い。技は飛び切りの荒技である。破壊力、抜群。一撃必殺。しかし、簡単には出さない。殴られ蹴られ締められ捩られ飛ばされて、それでも耐える。耐えて耐えて、耐え抜いて、大向こうが痺れを切らすすんでの所でやおら繰り出す。まさに、黄門様と同じドラマツルギーではないか。これが馬場の琴線を掻き毟らぬはずはなかろう。
 
 詳説は省くが、以下、主な技を列挙する。
◆16文キック ―― 馬場といえば、これだ。実際は16文なかったそうだが、語呂でこうなった。
◆32文人間ロケット砲 ―― いわゆるドロップキックであるが、馬場の場合は16×2でこう呼ばれた。大一番の見せ場でのみ使った。
◆河津落とし ―― もと相撲技。力道山の技に工夫を加えた。2人とも倒れるのでどちらのダメージか、意外性があった。
◆脳天唐竹割り ―― 力道山の空手チョップを応用した。師匠から相手が死んぢまうから止めろと、忠告されたらしい。大きくジャンプして振り下ろす手刀にはど迫力があった。
◆股割き ―― 2メートルを超える長躯にして初めて成せる技だ。名前のごとく単純な技だが、相手は苦痛に呻いた。
◆ココナッツクラッシュ ―― 抱え込んだ相手の頭を自らの膝に叩きつける。相手はもんどりうって投げ出される。(ヤシの実割り)
◆アトミック・ドロップ ―― 相手の尾てい骨を自らの立て膝に落下させる。あそこは鍛えようがなかろう。(尾てい骨砕き)
◆ランニング・ネックブリーカー・ドロップ ―― 相手をロープに振って返ってくるところに走り込んで、相手の首に腕を掛けて倒れ込む。後頭部をマットに打ち付けてダメージを与える大技。(首折り落とし)
 ……などだ。
 別けても「16文キック」は最強の決め技だった。しかも余人を以て代え難い、天賦の芸当であった。馬場の代名詞でもある。ところが、お立ち会い。はたして、あれはキックであったろうか。
 挙げた片足を心持ち曲がった分だけ伸ばしはするが、「蹴った」とは言い難い。相手は決定的に打ちのめされてしまうが、その破壊力は自業自得に因る。早い話が、猛スピードで壁に突っ込んでいるのだ。決して矛ではない。むしろ盾だ。『矛盾』した揚げ句、盾が勝つのである。防衛の極みに勝利があるともいえる。ここに妙味と滋味がある。数多いプロレスの技の中で、突出する地位を占める所以である。しかも、使い手は一人に限る。痺れるようないい話ではないか。大いなる、いつもの牽強付会ではあるが、やっと見つけた『ダスキン玉川』級のチェイスである。(ちなみに『馬場肛門科』でググると、溢れんばかりに出て来る。なにかの因縁か?)
 となれば、入り乱れての武闘、騒擾に一喝でケリをつけるあの「印籠」とそっくりだといえなくもない。しかも極めて防衛的で、盾にも擬せられよう。シンパシーはここにもあったといえる。
 
 諸説はあるものの、巨人軍から退団したことで「一人でも」巨人だ!」が命名の由来だそうだ。(ジャイアンツとジャイアント)おそらく、贔屓筋の作り話だろうが、一番合点がいく。
 いまどきは現世(ウツシヨ)の方が意外なことばかりで、リングの「ドラマ性」ぐらいでは人は見向きもしなくなった。でもK-1では絶対に味わえないドラマを堪能できたのは僥倖ともいうべきであったと、今にして感謝している。 □