伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

疫病神

2010年11月04日 | エッセー

 この上なく乱暴な話をする。単なる感情論だというなら、その通り! と応えよう。感情のない人間はロボットでしかない。

 この男がアタマをとって以来、碌なことがない。
 まずは口蹄疫が襲い、参院選で大敗し(他人事ながら)、円高で苦しみ、尖閣で揉め、北方で揺れる。特にあとの二つはワン・ツー、ダブルパンチだ。そのほか巨細漏らさねば、紙幅が追いつかない。
 もうそろそろ気づいてもおかしくはない。つまるところ、この男は疫病神にちがいないのだ。人気ほしさのパフォーマンスとはいえ、四国お遍路が一の得意。憑いた疫病神を落とそうとでもいうのだろうか。それにしてもしょぼい。可哀想なくらいしょぼい。学校は東工大理学部を出たらしいが、理系と八十八箇所とどうリンクするのか論理的に展開してほしいものだ。

 近ごろでは見かねた大番頭がしゃしゃり出て、これまた物議を醸している。なにせ党内ガバナンスさえろくすっぽできない腰抜けが、一国のリーダーシップなぞ執れる訳がない。猿にさえ解る理屈だ。(猿の世界はカシラを頂点にした厳格なヒエラルヒーをなす)

 もし国会で「君は疫病神か?」と糺せば、「論理的な、まともな質問をしてください。聞くに耐えない!」と抗うだろう。
 昨今の窮まった荊蕀(ケイキョク)は、論理の及ばないところに投げ込むしかないのだ。この状況、推移を括ろうとすれば、「疫病神」を持ち出すのが最も相応しい。逆に、なぜこうも災厄が続くのか、論理的な説明ができるものならしてほしい。
 比較するのもおこがましいが、秀吉の天下統一と時を同じくして日本中の山野から湧くように金銀が出た。これは吉事だが、論理的に説明がつくか。所詮は、人物の徳(その時期に巡り合わせた幸運も含めて)に帰するしかあるまい。
 護るべき長が普天間で呻吟する時、一顧だにくれず、一言(イチゴン)だに発せず洞ケ峠を決め込んで、転んだ途端にむっくと鎌首をもたげる。こんな男に徳などのあろうはずはない。前任者は碌でなしではあったが、人でなしではなかった……と信じたい。辞めると言っておきながら、性懲りもなくまた色気を見せている。これは碌でなしのすることだ。しかし9月の党首選でみせた言動を斟酌すれば、人でなしとまでは言い難い。だが洞ヶ峠から蹌踉い出たこの男は碌でなしであり、かつ人でなしとでもいいたくなる。(人でなしとは、一義的に恩義、人情を解しない者をいう)
 口癖のように、「失われた20年」を繰り返す。以前にも述べたが、負の遺産を背負(ショ)ってますといえば免罪符になるのか。そんなに覚悟のない者は端(ハナ)から出張るな、といいたい。旧政権とて清濁併せもちつつも大きな舵を切ってきたのだから、まるまるダメ出しでは立つ瀬がなかろう。第一、選んできた国民をバカ呼ばわりするに等しい。大覚悟があるなら、尻拭いなどとは口が裂けても言うものではない。御里も知れるし、人品の高(タカ)もすぐに知れきってしまう。そんなことだから、いとも簡単に疫病神に化けてしまうのだ。

 小沢氏起訴の案件、その真偽は措くとして、カネ塗れを槍玉に挙げられつづけた1年であった。(小林千代美衆院議員は辞職、中島正純衆院議員は離党。いずれもカネで!)かつて事あるごとに自民党をあげつらった図式と同じではないか。攻守が替わっただけだ。おまけに、企業・団体献金の再開である。後期高齢者医療制度の改定にしても明らかな後退、改悪だ。あれほど数の横暴を糾弾してきたのに、陣替えしたら有無をいわせず多勢で押しまくる強引な議事運営。利権だの利益誘導だのと吼えていたくせに、今度は自分たちが露骨な選挙結果による予算のさじ加減を始める。さらに党首選で端無くも見せてしまった構造的な派閥の対立。なんだかいまや自民党の方が一時の(ほんの一瞬ではあったが)民主党のような清新ささえ漂う、といってあながち外れてはいまい。なんのことはない、際限なく(大盤振る舞いだが、かつての、としておこう)『自民党化』しつつあるのではないか。
 いったい、どこが変わったのだろう。政権が変わっただけで、政治はより劣化した。変えたくて変えたけど、変わらずに薮蛇だった。とどのつまりが疫病神のお出まし、といったところか。

 疫病神とくれば、映画化された浅田次郎著「憑神」(07年7月本ブログ「トワイライトはお好きですか?」で取り上げた)を出さないわけにはいかない。幕末、旗本である別所彦四郎を貧乏神、ついで疫病神、最後に死神が襲う。この順序は厄害の強さであろう。バブルが弾けて以来、この国には貧乏神は居着いたままだ。かてて加えて、こんどは疫病神である。
 余談ながら、貧乏神と死神は『神』であるが、疫病神には嫌われ者という意味もある。三神のうちで唯一、人格にも適用される『神』である。二神は憑くが、この神は人であっても化身ができる。つまり、憑かれ憑くのだ。この平成の疫病神は両意を具える。
 件の旗本は、自ら上野戦争を死地とすることで(己の意志で死を選ぶことで)最強の死神に『勝利』する。

〓〓 雨にしおれた二柱の憑神は気の毒だが、ひとこと言うておかねばなるまいと彦四郎は思った。
「わかっていただけたか。人間は虫けらではないのだ」
 緋色の手綱を返すと、別所彦四郎は馬の尻に鞭を当てた。

 これには唸る。亡霊はこの作家の十八番(オハコ)だが、神霊というこの世ならぬものに勝利を宣して、この作品は終わる。人間は神の掌(タナゴコロ)に弄ばれる虫けらではない。神霊は自らの死を知らぬが、人間は死するを辨(ワキマ)える。この分別こそが神霊をも超えるのだ。 〓〓(上記ブログより)
 確かにそうなのだが、国民挙って尖閣諸島と北方四島で玉砕するわけにはいかない。だから疫病神が死神にランクアップするまでに、なんとかせねばならない。エクソシストにお出まし願おうにも、宗旨がちがうと効き目はなかろう。さて、いかに。
 次の総選挙が望まれるが、それこそ旧政権と同様みすみすおいしい多数を手放すはずはない。アタマを挿げ替えようにも、残っているのは輪を掛けたカスばかりだ。となれば、霊験を抑え込むしかない。疫病神の骨抜きだ。足したり引いたり、数の尾っぽを振り回さぬよう機に臨み変に応ずるほかあるまい。それにしても、難儀なことよ。 □