今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

成人の日の日向薬師

2024年01月08日 | 東京周辺

成人の日の今日、20歳の誕生日を丁度2週間前に迎えた甥が、区と母校の成人祝いに出席するため、
スーツ・コート姿で家を出るところを、私が家の前で記念撮影した
(私の時もそうだったが、男子の成人の日は家族でもこの程度の対応。
本人にとっても成人式はかつての友達と集まることの方が重要だった)。


私はそのままカメラを携えて、小田急線に乗って神奈川県の日向(ひなた)薬師宝城坊)に向かう。

日向薬師は、丹沢・大山の麓にある奈良時代創建の古刹で、山の中にポツンとありながら、
重要文化財の仏像がひしめいている素朴で豪華な寺。

その文化財の1つである本尊薬師如来(伝行基作)が、本日8日(初薬師の日)に開帳されるのだ。

以前ここには、大山の下山ルートとして立ち寄ったが、今回は上の写真撮影もあったので、
大山登山は省略して、伊勢原駅からバスで往復した(「丹沢・大山フリーパス」を利用)。

バス終点の日向薬師バス停で、Googleマップを頼りに日向薬師までの歩行ルートを探ったら、遠回りの車道を案内された。
それでも15分で着き(バス停の案内には30-40分かかるとあった)、まずは茅葺きの本堂(写真:重要文化財)の薬師如来と十二神将に参拝(こちらは重文ではない)。

ついで写真左奥の宝物殿に拝観料300円払って入ると、館内左側に丈六の阿弥陀如来坐像、正面に鉈彫りの本尊薬師三尊とその左右に展開する十二神将と四天王のいずれも立像、
そして右側に丈六の薬師三尊が居並ぶ(立像の日光・月光両菩薩は奈良薬師寺と同じく、軽く腰をひねっている)。

これら合わせて鎌倉時代作の計23体もの国指定重要文化財の仏像が三面(視野270°)にひしめく壮観は、
同じ神奈川県の古都鎌倉でも経験できない。
※:本尊の薬師三尊は平安時代作。館内の重要文化財は2頭の獅子頭を合わせると25体で本尊を収めている厨子を含めると26。

開帳日である本日ならではの、この贅沢な空間をじっくり味わう。

ご朱印集めの趣味はないが、丈六の薬師三尊の御影(おすがた)があったので迷わず購入(500円)。

帰りは、Googleマップでは案内されなかった石畳の参道を下った
(Yahooマップだと参道は地図に表記されるが、こちらもルート案内はできなかった)。

これで私の2024年正月の寺社巡りはおしまい。


七福神巡りはしご:2024

2024年01月06日 | 歳時

正月三が日は意地でも家で過ごすが、それ以降の松の内(4-7日)は、正月気分を味わいながらも、
ナマった体を動かすのにはウォーキングを兼ねた”七福神巡り”が最適。

東京も地元の谷中をはじめとして、各区ごとにあるほどの密集状態なので、むしろ選ぶのに苦労する。
地元に近い谷中(北区・荒川区・台東区)は幾度も巡り(最近はコロナ禍の2021)、
その後は雑司ヶ谷(豊島区・文京区:2022)山手(港区・目黒区:2023)と巡った。

そこで今年は、数ある都内の七福神の中で、紅一点の弁天を基準に、日本橋(中央区)千寿(千住:足立区)が候補に絞られた。
日本橋は、水天宮の弁天が正月5日までと巳の日にのみ開帳。
もう5日を過ぎているが、6日は幸い巳の日。
千寿は、弁天のみが由緒ある石仏(他は七福神巡り用に設置)。
また日本橋は、人形町駅周囲にこじんまりと集まっていて、都内で最も短時間・短距離で回れる。
それって便利だが、言い換えると、ウォーキングとしては物足りない。
千寿も北千住駅から一周で回れる。
そこでまずは日本橋を巡り、日比谷線で人形町から北千住に移動して千寿を巡る、すなわち七福神巡りの”はしご”をすることにした。


自宅からは地下鉄の乗り継ぎの都合で、半蔵門線の水天宮(弁天)が行きやすいので、そこで降りて、地上に出るともうそこは水天宮の脇。
旗を持った他県からの「歩こう会」の団体さんとかちあってしまい、水天宮は一挙に混雑。
なので本殿参拝は諦め、本日開帳日の弁天参拝の列に並ぶ。
金色の弁天様をガラス越しに拝む(写真)。

ここ水天宮は、都内で唯一と言っていいくらい妊婦の帯祝いなどの安産祈願が有名で、
初詣・七福神巡り以外に赤ちゃん連れの参拝客も繰り出してくる。
いわば日本橋界隈で一番混む神社なので、目的の弁天も拝めたことだし、早々に後にする。


大通りを渡って、松尾神社(大黒=大国主)に行くが、小さい神社に参拝客が長蛇の列となってるので、列の外から距離をとって参拝し(願掛けはしないので、これでok)、
社務所で、日本橋七福神の宝船付きの人形セットを買う(5000円)。

七福神巡りの記念品は、それ専用の色紙に参拝先の朱印を7つ集める形式が多いのだが、一部、七福神人形を販売している所もある。
そしてここ日本橋だけは、七福神人形に”宝船”がついたセットを七ヶ所のどこかで買える(水天宮は売り切れ)。
5000円は安くはないが、縁起物だし、今後もずっと飾っておけるので、色紙よりは飾り甲斐があると思い購入する(最下写真)。
実はこれを買うのも日本橋を選んだ理由。

末廣神社(毘沙門天)も長い行列なので、遠方からの参拝で済ませ、笠間稲荷(寿老人)・椙森神社(恵比寿)は、行列が短かったのできちんと参拝。
小網神社(福禄寿)も大混雑なので、遠方から参拝し、最後の茶ノ木神社(布袋)は人が少なく並んで参拝した(ただし布袋の像は見当たらず)。

以上、3ヶ所ほど行列に並ばなかったので、ここまでで約1時間。
はっきり言って、日本橋七福神は、参拝者がキャパを超えている(遠方の歩こう会の団体まで来る始末)。


正午過ぎたので、昼食にそば店を探すが見当たらなかったので(うどん店はあり)、人形町から日比谷線に乗って北千住で降り、駅前の富士そばで腹ごしらえ。

旧日光街道である商店街を北上し、観光案内所で七福神巡りの地図をもらい、千住元氷川神社(大黒天)を参拝。
こちらは日本橋と違って、ほとんど行列がないので、きちんと参拝できる。
また、各神社で担当の七福神の人形(700円)を売っており、全部揃えると4900円になる(7人を乗せる専用の台(≠宝船)も売っている)。


そこから住宅街の路地を北上して、荒川の堤防下を進むと、大川町の氷川神社(布袋)。
ここには、溶岩で造られた立派な富士塚もあって、上部まで上がれる(頂上には立てない:写真は山頂部からの眺め)。
私は富士塚を見ると、立ち入り禁止でない限り、必ず登拝する。
ここの富士塚には本物の富士山と同じく(山腹を一周する)お中道もあり、一人で富士塚の中をぐるぐる回っていると、それを見て他の参拝者も登りにやってくる。

荒川に並行した路地を進んで達した元宿神社(寿老人)では、地元の人がお茶をサービスしてくれる。


ここからしばらく南下して、千住の鎮守である千住神社(恵比寿)に着く。
ここにも富士塚があるが、残念ながらここのは7月1日の山開きの日以外は立ち入りできない(そういう残念な富士塚が多い)。
ここの恵比寿像は、参拝者が手で像を3回して(男は左、女は右=陰陽の原理)、願をかけたい部位をハンカチなどで撫でるという。
なので、一人当たり時間を要するが、混んでないのが幸いで、マイペースでできる。

現日光街道(国道4号)に出て、八幡神社(毘沙門天)を参拝し、道を渡って、大きな狛犬のある稲荷神社(福禄寿)を参拝。


そして最後の仲町の氷川神社は、今までの七福神巡り用石像でない、もともとある弁天の石像を拝める。ここの弁天は江戸時代の作で、二臂でありながら持ち物が琵琶

でなく、八臂弁天が持つ剣と輪(リン)のようで、さらに像の下に三猿(見猿、聞か猿、言わ猿)が彫られている珍しい形態(右写真)。
三猿があることから庚申塔でもあったらしい。

千寿では各所で担当神の人形を売っているが、すでに日本橋七福神の宝船付き人形を手にしている私は、弁天だけ社務所で人形を買う(下写真)。

千寿七福神巡りは約2時間かかった。
ここから旧日光街道の商店街(千住宿)を通って、北千住駅に出て、ここ始発の都バスで自宅に戻った。


以上、七福神巡りをはしごして、宝船付きの七福神人形と、別サイズの弁天人形を得た(右写真)。

ちなみに、今回の七福神はいずれも14の神社で祀られていて、恵比寿以外は神道の神でないから、今の神社は(維新後と違って)異教の神にも寛容になっているといえる(これが神道本来の態度)。
※:大黒・毘沙門・弁天は仏教に取り入れられたヒンズー教の神。布袋は仏教の坊さん(弥勒菩薩とも)。福禄寿と寿老人は道教の神。これらに神道の恵比寿を加えた「七福神」はアジアの多神教を融合した”メタ多神教”を実現している。七福神こそ、不寛容な一神教に対抗する宗教融合の象徴であり具現である。


正月痩せ

2024年01月05日 | 健康

正月三が日は、外出もせずに、昼間からおせち料理を肴にダラダラと酒を飲んだ。
しかも夜は映画鑑賞しながら、この時期だけ解禁している湖池屋の「のり塩」の大盛りサイズ(180g)をバクバク食べる生活。
すなわち、運動しないで飲み食い三昧した結果、5日に久々に体重計に乗ったら、体重はなんと0.3kg減少していた。
”正月太り”どころか、その逆の正月痩せになった。

その一番の原因は、餅を極力少なくしたためだろう。
おせちの締めの雑煮は毎回餅1個。
夕食は食欲ないので、やはり磯辺焼きの餅1個とおかず。

たらふく食べたおせちは、タンパク質(しかも魚介)中心で、あとは私が好きな煮染め(野菜)ばかり。
すなわち、満腹感を得たものの、実に糖質制限的だった(ポテトチップスを含んでも)。

もっとも、運動不足がたたって、筋肉量だけでなく骨量までも減少し、内臓脂肪はやや増えた。

生活的には”だらけた三が日”だったが、悪影響はなかったようだ。


機内がパニックにならなかった理由

2024年01月05日 | 防災・安全

2日に起きた羽田空港での衝突事故。

テレビをつけたら、事故直後の中継で、旅客機から煙が出ていて、消火作業を続けられている中、火はどんどん燃え広がり、機体全体が炎に包まれた。
その中継時点では、乗客の安否についての情報がなかったが、もし機内に取り残されていたら、焼死は免れない状態(1994年の中部国際空港での中華航空事故を思い出した)。
その後、乗客乗員が全員避難済みと知らされ、安堵の息をついた。

この奇跡的避難が、世界中に紹介され、避難を担当した CAたちが称賛された。

世界中の人たちが、疑問に思ったのは、なぜ機内がパニックに陥らなかったのか、ということ。
言い換えると、このような事態になると、人々はパニック状態になる(パニックは個人心理(パニクる)ではなく集団現象)ものと思われているから。

防災心理学では、パニックが発生する4条件が確認されている(私は大学の授業で紹介)。

①差し迫った危険が存在するという認識が人々の間にある
②脱出の可能性がある
③脱出路に制約があり、全員は避難できそうにない
④正常なコミュニケーションが欠けている

以上のうち4つが同時に満たされてるとパニックが発生する
※:①だけでパニックなるという思い込みは「パニック神話」とう誤った認識なのだが、為政者レベルがこの認識だと、パニックの発生を恐れて危険情報が提供されなくなる(福島原発事故時の政府による情報隠蔽)。
言い換えると、1つでも欠けると発生しない(にくい)。

今回の着陸後の機内は、
①窓の外の炎、そして機内の煙で成立。
②空港に着陸しているので成立(1985年、御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機ではこれが成立しなかったので、パニックは発生しなかった)
③航空機は使用できる出入り口が少なく、狭い。すなわち構造的に成立しやすい。

以上から、状況としてパニックが発生しやすい条件が3つ揃った。

そこで決め手のなるのが④。
④だけが、その場に居合わせた人々で制御できる条件なのだ。
すなわち、実際にパニックが発生するかどうかは、④で決まる。

CAはこの④についてトレーニングを受けている。
もちろん、 CAとて①の正確な状況は把握していなかったし、 CAと機長、 CA間のコミュニケーションが物理的に遮断されていた。
なので個々のCAの判断・行動に頼るしかない状況だった。
そして CAは独力で判断することができた( CA間での意思疎通も可能に)。
炎と煙という目の前の情報のみで対応を考え、開けるべき扉を選定し(これを間違えたら機内に炎が入り込む)、あとは訓練通り、大声で断定的に避難行動を乗客に指示した。
すなわち①の危険が高まる中、④を起こさせないことで、③の成立も回避し、②の可能性を最大限にした(結果、”①だけの状態”にもっていった)。

一方、乗客も、このような事態では、 CAの指示に従うのが最善であると理解しているので、皆指示に従った。
この乗客の秩序だった行動が他国では成立しにくいと、他国の人(例えば中国)自ら認めている。
実は、我々日本人は、義務教育時代に全員、学校で避難訓練を体験していて、こういう時は各自が慌てず走らず避難することが体に染み付いている(避難訓練は大学でも実施。会社員時代、会社でも実施していた)。

すなわち、(幼い子どもを除く)日本人全員が、適切な避難行動をマスターしているのだ。
全員避難成功という奇跡は、このような理由で実現した。


次の地震は”ここ”で起きる

2024年01月04日 | 防災・安全

日本で地震の危険がある場所は、「首都直下」と「南海トラフ」だけだと思っている人は、まさかいないと思うが、これらの地域以外の人は、自分の住む”ここ”では起きないとたかをくくっているのではないか。
そう思いたくなるほど、これら以外の地域の耐震化(耐震補強)が進んでいない(最優先すべき地震防災は家の耐震化)。
そして、そういう地域に限って地震に遭って、耐震性のない古いビルや重い瓦屋根の民家が倒壊する(1981年以降の耐震基準を満たしていれば震度7でも倒壊はしない。2000年以降なら尚更)。
※:この2つは地震想定域内では存在してはならないのだが、旅先でよく見かける。

熊本も、大地震の記録がなかったため、耐震基準そのものが緩め(すなわち震度7では倒壊するレベル)になっていた。
そこに震度7の地震が2回襲ってきた(記録がなくても活断層は複数走っていた)。
結果的に、耐震基準を緩くしたことで、被害を大きくしたことになる。

能登半島は、陸地にこそ活断層は見当たらないが、そもそも半島という地形の多くは海側が隆起してできたもの(房総半島、三浦半島も)。
なので海側に地面を隆起させるほどの活断層(逆断層)がある。

次の地震は”ここ”で起きると本気で思っている東京都や静岡県は、地震対策の手を休めない。
その結果、首都直下型地震での東京都の想定死者数は減少し続けている。

言い換えれば、”ここ”で起きると想定していない地域は、他人事なので、被害想定(=地域内のどこがどう危険かのチェック)すらしていない。

防災の第一歩は、災害を自分の問題として本気で受け止めること。
次の地震は自分の居る”ここ”で起きると思うことだ。

本記事タイトルの”ここ”はどこの地かと思ってこの記事を開いた人に、まずは心してほしい。


『戦国武将列伝2関東編上』を読む

2024年01月03日 | 作品・作家評

正月三が日は、箱根駅伝以外にテレビは見ず、例年関東戦国史の本を読むことにしていて、今回は『戦国武将列伝2(関東編上)』黒田基樹編 戎光祥出版(2022年)を読んだ。

このシリーズは、いわゆるメジャーな戦国大名クラスではなく、そのクラスに至らない国衆レベルの全国網羅集で、関東だけでも上・下2冊になっている。

関東編の上巻は、北条氏康・上杉謙信・武田信玄の戦国大名3傑が揃う前の、足利公方家と上杉管領家との対立から始まり、それら双方が分裂していくという混沌状態の中で生きた土着の武将たちが上巻だけで38の章で紹介されている。

これらの武将レベルは、大河ドラマはもとより、映画や小説の題材にもならないので(小説になっているのは太田道灌くらい)、彼らのリアルな生き様がわからなかった。
いわば、私が一番知りたい部分を集めた本だ。

そういう期待を込めて3日の間、460ページの上巻を読んだが、正直辛かった。

というのも、結局、彼らのレベルって、実現したい国家・社会観があるわけでなく、ただ父祖伝来の所領の維持拡大に汲々としている生涯だから。
その目的のためだけに、あっちについたりこっちについたり、そして親兄弟、親類縁者、主人と家臣の間で骨肉の争いを演じる。
しかも決定的な強者がいないダンゴ状態なので、互いに勝ったり負けたりで、ちっとも事態が別次元に展開しない。
※:唯一の例外的強者は太田道灌(勝率100%)。逆にいくら負け続けても死なないのが長尾景春。

そのような煮え切らない生涯の例を40人以上(1章につき2人の例も)続けて読むのが辛かったのだ。

それだけでなく、彼らの史料が乏しいこともあって、人物・事績の学術的確認が精一杯で、人間的なエピソードなどが残っていない(これも唯一の例外が太田道灌)のも、読むのが辛い理由。

戦国末期の忍城の成田氏(「のぼうの城」で映画化)のような痛快なエピソードを期待したのだが、見当たらなかった(かように私も”物語”を求める一人だった)。

記録に乏しく、エピソードも残っていないということは、これらの人々が当時の人にとっても印象に乏しかったということの証左かもしれない。

手元にある下巻はしばらく読まないでおき、関東戦国史後半の主人公『北条五代』を先に読もうか。


滅多に起きない事象が起きた時

2024年01月02日 | 心理学

1月1日の元日に、石川県で震度7の地震が起きる確率。
羽田空港で航空機同士が衝突する確率。
さらに、これら2つが連日に起きる確率。
これらはそれぞれが非常に少ない確率であることは周知の通り(宝くじで1等が当たる確率も加えてもいい)。

あまりに低確率の現象に遭遇すると、人はそこに人為的な意思を想定したくなる。
これはシステム2の”物語化”の動機による、人間に普遍的なバイアス(認知の偏り)。
最もシンプルな物語論理は、「すべては神の思し召し」。

物語に対する科学的反論(バイアスの脱却)は、”偶然”という解釈。

人はいかに偶然の事象に対する理解が苦手かは、確率論の問題の正解率の低さで証明されている(数学者でも間違う)。

例えば、地震は寒い時期に多いという印象があるが、実際に統計を取るとそうでないことがわかる→「大地震に季節傾向はあるか

今、ランダムな間隔で、手をたたいてみて(人間では完全なランダム化無理なのでコンピュータにやらせてもいい)。
すると、ある時は、連続して手をたたく場合がある。
その期間だけを切り取ると、事象の発生は連続と見做され、ランダムであることが失念される。

例えば、夜空の星の散らばりは、天の川を除けばランダムといっていいが、人は目立つ星々を繋げて、あえて有意味(解釈可能)な形体を構成する。
この形態認知のゲシュタルト(有意味)化を心の分析に使っているのが、ロールシャッハテストだ。

そう、物語化は、それを語る人の心を表現している。

ちなみに、実証科学の推論は、データの結果が偶然でないことを数学的に精査する作業(統計的検定)を経由しなくてはならない。
逆にいえば、データからランダム性をきちんと数学的手法で取り除くことで、データに潜む周期性(有意味性)が見えてくるのだ。

偶然か必然かの2元論ではなく、データの変動=法則的要素+偶然的要素 の定量的合成(線型モデル)として考えるのが科学的態度。


2024年元日の地震

2024年01月01日 | 歳時

2024年の元日は、例年通り新湯で湯垢離をして、和服に着替えて近所の神社に初詣のつもりだったが、
昨日から風邪をひいているので、湯垢離で身体を温めた後は、外出を控えた。
※:1月1日終日が元日、それに対して元日の朝だけが元旦。元旦=元日と誤解している人が多い。あえて元旦と言わずに素直に元日と言えばいいのに。

その後は例年通り、烏帽子・直垂(ひたたれ)姿となって、弟一家を交えて屠蘇(とそ)の儀(式三献)。
そしてお節料理を肴に、この三日間は真昼間から酒を飲む。

宴が終わって、のんびり読書でもしようかと思ったら、家が揺れている。
立っていた母が気づかないほどだったので揺れは大きくない(震度2)が、やたら長い。
この長さは、3.11を思い起こす。
急いで テレビをつけ、 NHKに合わせる。

すると震源地は、かなり離れた能登半島。
震度が最高度の7になっている(すぐには被害状況が不明でも、しばらくするとそれなりに出てくる)。

津波警報が発令され、テレビの女性アナウンサーは、避難を呼びかけている。
地震が続いているようで、津波警報が大津波警報がランクアップされた。
すると女性アナウンサーは、「今すぐ逃げて!」と声を張り上げる。

津波に対しては、「逃げる」以外に方法がない。
気象災害でよく使われる「命を守る行動を…」ではダメで、具体的な行動を示さねばならない。
なのでこのテレビからのこの指示は正しい。

ただ、1箇所気になったのは、「できるだけ遠くに」と形容していた点。
大津波警報で5mの津波が予想される場合、海岸部の人は、海抜5m以上の地まで逃げなくではならい。
海岸部に平野が広がっていたら、”遠く”に逃げている最中に津波に追いつかれる。

正しいのは、「遠く」ではなく「高く」。
夜の番組では、ここがきちんと訂正されていた。