今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

他者を見下す人たち

2024年04月10日 | 作法

他者を見下す発言で辞職に至った県知事、機内・県職員へのパワハラ言動が話題になっている国会議員。
いずれも社会的地位が高いものの、作法的には未熟なレベルで止まっている(礼という徳が身についていない)残念な人。

いい歳をした人が尊敬に値しない人格レベルに止まっているのは、何も価値観の変化についていけないという行動規範のズレの問題ではなく、「人格の陶冶」という生涯にわたる成熟課題を放棄してしまった現代人の限界なような気がしている。
※:これにもレベル差があり、儒教は社会性に優れた”聖人”が目標だが、仏教はそのレベルを超越した”如来”が目標。

明治維新で封建的身分制が解消され、戦後に男女平等が規定された。

なのに、未だに対人関係を上下関係とみなし、上の者が下の者を蔑む。

本来の”礼”は、上下関係は認めても、蔑むことは本質的無作法として否定される(これは既述)。

私が気になっているのは、現代の作法家(マナーの先生)たちが、意外に封建的上下関係や不必要なジェンダーを無批判に現代に持ち込もうとしている点。

そもそも作法は、社会的価値の実現が目的である。
すなわち、社会的価値が作法の上位にあって、社会的価値とは別に作法の価値があるのではない。

なので封建時代(的社会的価値)の作法を、そのまま現代の平等を理想とする社会に適用することはあり得ない

私が紹介する小笠原流礼法も、身体動作の普遍的合理性の部分であり、また儒教の礼思想がもっている万人に対する表敬の普遍的価値の部分である。

それに対し、礼法の原典たる『礼記』が、女性は生きている間ずっと男(父、夫、息子)に従えという”三従の徳”を説いても、それは採用しない(小笠原流ではすでに室町時代にこの教えを否定している。ただし江戸時代は公的道徳として採用された)。

作法が価値の実現であるというからには、その作法が前提としている価値観こそ自覚すべきである(私が構築した「作法学」は、作法に含意されている社会的価値観を抽出することを目的としている)

この視点が欠けている”マナーの先生”は、伝統的作法が準拠している社会的価値観に無批判な、
単なる形式主義者(形だけの人)に過ぎない(武家礼法を単なる”故実儀礼”と同一視している歴史家たちも同じレベル)。


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