今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

作法・礼法講座1:礼とは

2020年09月26日 | 作法

このブログでは、私にとって専門的ながら学術論文よりは一段一般向けの話題、しかもデータやテキストの分析を要しない、自分の頭だけで語れる内容を開陳している。
今まで、本来の専門である心理学(たとえば「心の多重過程モデル」)や、気象・防災、あるいは温泉について、連載などにして、ある程度つっこんで語ってきた。

それらを含む私の一定以上の専門領域の中で、作法についてだけは、積極的に語ってこなかった。
世間のマナー的問題を口酸っぱく語ることは極力したくなかったためだが、作法の研究者の一人としては、作法の”本質的な問題”というのが、世間ではなかなか論じられていないことも気になっていて、細かな作法より、もっと基本部分を語った方が、意味がありそうな気がしてきた。

そいういうわけで、まず、自分が準拠している小笠原流礼法をベースにして語りたいが、小笠原流礼法の伝達者(教室の先生)としてではなく、より一般的な作法の視点を付け加えていく。

まず、作法(manners)とは、動作(行為)のやり方(manner)の集合を指す一般名称とする。
なので作法は、世界中にそれぞれの作法が分布している。
その作法の中で、「礼法」と名乗るのは、儒教の「礼」という価値の実現を目的とする作法の1つに限定する。
そういうわけで、本記事でも作法と礼法を上の意味で使い分ける(礼法は作法の部分集合なので、礼法は作法でもある)。
小笠原流礼法もその意味での礼法である。

このように、学術レベルで論じるには、定義をきちんとしなくてはならない。

では礼法とは何か。
法は”やり方”であるから、問題は”礼”だ。

礼の定義は、まさに『礼記』(らいき)※に載っている。

※礼記:儒教の教典で、礼についての基本テキスト(三礼)の1つ(他に周礼、儀礼)。前漢時代(前1世紀)に編纂された世界最古の作法書といってもいい(礼記より古いといわれる周礼・儀礼は作法の個別書で一般書ではない)。

『礼記』の冒頭(曲礼・上編)は、「敬せざるなかれ」で始まる。
すなわち、敬の二重否定(不在の否定)という強い肯定である。
礼とは、する、という心の表現行為と規定されている。
敬という気持ちを、形にして表現したものである。

言い換えれば、敬のない形だけでは礼ではない。
形だけの作法は、動作法の練習、身体運動でしかなく、それは礼を満たしていない。

また、内心に敬があっても形としないのも礼ではない。
心(気持ち)さえあれば形はどうでもよいという心理主義が否定される。
礼とは、表現行為、コミュニケーションなのだ。
そもそも、気持ちは内に満ちているなら、表にあふれ出るものである。
そこまでいかずに抑制できるレベルの気持ちは”無い”に等しい。
すなわち心理主義は、心理学的に否定できる。

なので、敬の気持ちがあれば、それは表現せずにはいられない。
それが本来の人の心であり、その素直な心を「」という。
この誠が敬を形にさせる力である。
敬と誠が、礼を実現する。
礼は敬と誠から成っている。

以上が、『礼記』による礼の説明である。
礼法を教える先生方も、礼法をここから初めてほしい。
そして自分の礼法が敬と誠を準拠にしているか、自問してほしい。

礼=敬
この図式は、東洋の「礼法」だけに限定されない。
16世紀にヨーロッパ中にひろまった作法書『ガラテーオ』※は、もちろん儒教の礼とは無縁だが、

※ガラテーオ:Il,Galateo. Della Casa(1503.1556)の作。 以来この書名が作法の代名詞となり、イタリアでは作法のことをgalateoという。実際、私がイタリア人から大学で何を教えているのかと尋ねられた時、mannersと答えても相手はピンとこなかったが、galateoと言い直したら納得してくれた。池田廉氏の邦訳(春秋社)がある。

その『ガラテーオ』は、最も不作法(非礼)なこととして、「人を軽蔑すること」を挙げている。
人に対して怒ることは、まだこちらに正義があるから許される。
しかし、人を軽蔑することは、こちらにまったく正義がなく、この行為が許される理由がないという。
もちろん軽蔑は、敬の正反対の気持ちであるから、感情−論理的に『ガラテーオ』も人を敬すべしと言っていることになる。
礼は、儒教的礼法を超えて、普遍的作法の真髄に達している。

では敬の対象は何か。
『礼記』が説くには、他者はもちろんであるが、自分自身、自分の身体をも敬せという。
なぜなら、親からもらった我が「身体髪膚」は、(最重要の儒教倫理)の対象※となるからだ。

※:この理由部分の出典は『孝経』。日本人が入れ墨(タトゥー)を嫌うようになったのは、室町以降に成立し拡散した儒教的礼法の影響といえる。なぜなら卑弥呼の時代や縄文時代は入れ墨や抜歯を習慣としていた。

まず、自分を敬す、そして自分の周囲、物を含めて、すべてを敬す。
かくして、自分の生きている世界が、敬するものに囲まれていることに気づく。
だから、礼法をやると、敬や誠の心が活性化し、その結果、幸せな気分になる。

作法家はどうしても世の不作法について文句を言いたくなるものだが、それに専従すると肝心の敬の心から離れてしまうので要注意。

作法家ならずとも、上から目線で、作法を知らない人をバカにする人がいたら、その人は、作法の知識だけはあっても、敬という作法・礼法の心とは無縁で、しかも幸せではなさそうなことが、以上からわかる。

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2 コメント

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Unknown (midoroma)
2020-09-28 17:52:10
なるほど、イタリア語で「紳士」のことを"uomo galante(galateoの形容詞形)"と言いますが、その語源がわかりました。
ただし、今は女性に対して親切、紳士的にふるまう男性のことをさす狭義な使い方になってます。
他に作法を意味する言い方に"buone maniere(良いやり方)"というのがありますが、これも食事作法に限られた狭義に使われます。
真の意味での作法、礼法が世界的に広まって皆で幸せになれるといいですね。
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Unknown (山根)
2020-09-28 22:00:38
midoromaさん、コメントありがとうございます。galateoが言葉として今でも生きているのがうれしいです。『Galateo』を書いたデッラ・カーサは、敬だけでなく、所作の美も作法の基準としました。同じ頃、日本で小笠原氏が、作法という意味の”仕付け”を「躾」という字にして、所作の美を追究したのと軌を一にしています。
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