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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

易の心理学2:ユングの共時性

2022年09月19日 | 心理学

一般的に心理学と占い(易を含む)は水と油の関係だが、易と真剣に関わった心理学者がいる。
C.G.ユングである。

彼は生物学主義のフロイトと違って、ヨーロッパ伝統の”人文主義者”を彷彿とさせるほど歴史文化的知識が広く、さらに東洋思想にまで接近した。

その流れで、R.ヴィルヘルムによる欧州最初の易経翻訳本の序文をユングが担当し、そこにおいて易の原理を彼の心理学理論で説明した(ユング 『東洋的瞑想の心理学』(創元社)所収)。

言い換えれば、3000年の易の歴史において、著名な心理学者が易の原理を理論的に説明した唯一の例である。

そもそも、ユングがフロイトから継承した深層心理学のキーワードである「リビドー」について、ユングはフロイトの汎性欲主義を容認できず、より幅の広い、生命エネルギー的なものとみなした。
人の心の奥底にある生命エネルギーという発想は”気”そのものである(気の方がより心身一元論的)。
以上からも、ユングが気の思想に接近するのは当然といえる。

ただし鍼灸や漢方と違って、易が扱う”気”は内気(生命エネルギー)ではなく、外気である。
すなわちリビドーで説明できるものではない。

そもそも、易が3000年もの命脈を保っているのは(古代の他の卜占などはとうに廃れた)、それが占いとしての価値が色あせなかったからである。
要は当たるからだ。

なぜ易が当たるのか、それは易に携わる人たち、あるいは易を思想的に論じる儒者や道家にとっても、易の神(しん)※のなせる業としか言いようがなかった。
※:特定の人格神ではなく、易の神秘的な力そのもの。
易の卦の解釈は、鍼灸や漢方あるいは手相・顔相のように経験的な蓄積(帰納法的)によるものではなく、あくまで理論的(演繹法的)な説明でしかない。
何より、筮竹を手で分けた数の偶然によって卦が決まる。

そもそも、占いには、人の在り方は生まれた時から決まっているという宿命論と、偶然に作用されるという運命論とがある。
前者には星座(誕生月日)や手相などがあり、後者には易やタロット(オラクル)などがある。

宿命論は、人の運命を既定のものとみなし、運命論は、偶然に左右されるので、その時に見ないとわからないとする。

宿命については仮に星座や手相でわかるとしても、偶然の作用はどうやって知ればいいのか。

偶然は、通常の知性(確率論)にとってはランダムな事象なので、予測不能である。
人知を超えたレベルで接近するしかない。
人知(意識)を超えたレベルとは、ユングにとってはまずは個人的無意識。
だがそこは意識が抑圧した掃き溜めの場で、ドロドロした感情こそあれ、意識以上の知は存在しない。
個人的無意識のさらに深層にあるとユングが主張しているのは集合的無意識

集合的無意識は、個人を超えた共同的無意識の世界で、時空を超えた人類に普遍的な心の部分であるという。

個人を超えた心という点で、集合的無意識はトランスパーソナル心理学の理論モデルに取り入れられる(トランスパーソナル心理学を構想したのはマズローだが、理論に貢献しているのはユング)。

通常は集合的無意識が最深層として紹介されているが、ユングは晩年において、集合的無意識の奥に類心的レベル(サイコイド)というレベルを追加したという(プロゴフ『ユングと共時性』)。
そこは身心のみならず心と物質が未分化な状態だという。
中国の”気”はまさにこのレベルの現象で、気は身心一元どころか、世界を構成する宇宙エネルギーである。

人知を超えたもの(力)はここに存在しうる。
精神分析(深層心理学)の常として、人は自分の無意識に存在するものを内部に認めずに外に投影するという。
その力が外なるものに投影されて、例えば神(しん)、道(タオ)と概念化される。

サイコイドは、外界の物質世界とも関係するので、偶然の一致を引き合わせる共時性(シンクロ二シティ)は、このレベルの力において実現する。

すなわち運命という偶然は、占筮(筮竹を割って占う)という偶然によって(のみ)知ることができる。

これがユングだけが説明できる”易の原理”だ。

なので、私は占筮するとき、筮竹を右手で割る(卦が決まる)瞬間は、意識を無にして、無意識に任せることにしている
※:朱子は占筮する時の神に問うセリフ(問法)を制定したが、自己の無意識に向かってあえて問うことは不要といえる。

では、出た卦をどう解釈するのか。
易経に記されていることをどう読むか。
ユングによる易経の解釈は次の話で。



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