晴天の日曜、買ったばかりのLeica(D-Lux7)に慣れるため、近所の六義園に紅葉を撮りに行った。
六義園は駒込駅側ではなく、通常門の上富士側から入れば並ばなくてよい。
ここは2013年にも紅葉撮影で来たことがある。→記事「晩秋の六義園」
六義園は、中央部の池を周遊する内周と、深山幽谷風情の外周とがあるので2周する。
園内の最高地点である藤代峠から俯瞰する庭園もいい。
私はわがLeicaに PLフィルター(光の反射を減らす)を付けて、撮りまくった。
晴天なので、広葉樹の赤と黄に、針葉樹の緑、そして空の青が加わって、見事に心理4原色が揃う(右写真:Leica写真のお披露目)。
この自然の色の競演を、愛(め)でないわけにはいかない。
現代人にとって、”愛でる”ことは”撮影”を意味する。
ほとんどの人は、スマホのカメラを向ける(どうせなら、スマホを横にして撮った方がいいよ)。
たまにでかい望遠レンズを付けたデジイチの重装備の人もいる(こういう混んだ場所での撮影は、望遠の方が向いている)。
コンパクトデジカメ(ただしLeica!)の私は、シャッタースピードを固定して、あとはオートにして撮るが、紅葉のクローズアップを撮るには、ピントをマニュアルにして、葉に焦点を合わせる(下写真)。
人が風景にカメラを向ける瞬間、それはそこに何らかの美的感動を覚えたからであり、その風景の色彩と形態を画面に構成して切り取ろうとする。
スマホは限界があるが、カメラならファインダとレンズを使って意図した構図を構成できる。
この撮影行為そのものが、自分が感じた美に対する応答(愛でる)なので、撮ろうという意思を持つことが、美への感受性を高めることになる。
かくして六義園を堪能したものの、まだ日が高いので、山手線に乗って上野で降りる。
上野公園のイチョウの黄葉を撮るため。
上野公園に行ったら、園内の東京都美術館で「コートールド美術館展」なるものが開催中で、その目玉がマネの傑作「フォリー=ベルジェールのバー」(ど真ん中でカウンターに立つ女性が印象的で、背後の情景がすべて鏡像というのも面白い)。
日曜の昼過ぎなのに、入口に行列が見えないので、急きょ予定を変更して入館した。
まず接したのが、モネやセザンヌの風景画。
風景と長時間格闘した結果といえる絵画作品を観て、 今しがた自分がやってきた、ファインダを見てシャッターを押すだけの風景写真が、美への応答というにはあまりに安直であることに気づかされた。
感受した美に対して、その色彩と構図を自らの手で表現していく作業。
これがアート(技・芸・術)というものだ。
セザンヌの「大きな松のあるサント=ヴィクトワール山」を見て、この構図(主題となる遠くの山に、木と横に伸びた枝を近景に配す)は自分も写真で使っていると思った(実際、六義園で撮った)。
展示資料であるこの山の実写を見たら、それは立派な山で、私がセザンヌと同じくその地に滞在したら、この山をあちこちのアングルから撮りまくったに違いない。
だが同じセザンヌの「ノルマンディーの農場、夏」などのなんの変哲もない林の風景に対して、私は美を感受してシャッターを押すだろうか。
たとえ押したとしても(デジカメのシャッターは惜しげもなく押せるから)、その画像ファイルは一瞥しただけで、ゴミ箱行きになりそうだ。
逆に言えば、セザンヌはそんな一見凡庸な風景に対しても構成美を感受し、それを美術作品にまで仕上げた。
そこが素人の私と違う。
私は、美しいに決っている秋の紅葉を、これまた美的に構成された天下の名園の中で見ようとした。
しかも性能のいいLeicaのカメラで。
実に通俗の極みだ。
わが茶祖・珠光は、「冷・凍・寂・枯」 を旨とし、誰も見向きもしない冬枯れの枝に対して、美を感受する心を求めた。
印象派の巨匠たちが描いたのは、それまでの神話上の劇的場面や着飾った王族たちではなく、街中にくすぶる名もない庶民たち、すなわち”侘び・寂び”た情景だった。
芸術家は、表現力以前に、美を感受する目が違う。
かように六義園での撮影に自己批判を余儀なくされて美術館を後にし、上野公園を歩いた。
上野の森美術館前ではゴッホ展を見ようとする人たちが大行列をなして、公園内に伸びている。
ゴッホは生前、絵がまったく売れなかったというのに、今の時代のこの人気のなんと皮肉なことか。
それは、”通俗”それ自体が時代で変わるということだ(新しい通俗を切り開く人がいた)。
美術館前の広場に黄色が鮮やかなイチョウの大木があり、その下には着物姿の女性が立っている。
思わずバッグにしまっていたカメラを撮り出し、シャッターを押した。
さらに寒桜も咲いており、桜を前景にイチョウの黄葉を撮った。
いやはや、通俗からはすぐには抜けられそうもない。