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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

作法・礼法講座3:武家礼法の存在

2020年10月04日 | 作法

ここでは小笠原流礼法に接近するために、礼法一般から武家礼法に絞っていく。

武家礼法ななぜ在るのか。

その答えは、日本で武士が誕生するずっと以前、紀元前1世紀成立の『礼記』(聘義)にある。
「勇敢強有力の者は、天下事無ければ、則ち之を礼儀に用ひ、天下事有れば、則ち之を戦勝に用ふ」(勇気と力のある者はその力を平時は礼儀に用い、戦時には戦いに用いる)
これが予言書であるかのように、日本の武士は武芸に礼法を加えた。

日本の”武士”は、単なる「兵」(つわもの)から脱して、武人でありつつ儒教の「士」、すなわち庶民の上に立ち、おのれを律する理想化された人格を目指したからだ。

そもそも小笠原氏は武芸(弓馬の法)を「糾方(きゅうほう)と称していた。

糾とは「ただす」という意味で、礼記以前の周の礼を記したという『周礼』(しゅらい)に載っている。
糾方の命名者は『周礼』の知識があったということか。

 1.小笠原流礼法誕生まで

まず、礼法誕生に至るまでの小笠原氏の流れを簡単に紹介する(以下、小笠原氏の系図にもとづくもので歴史学的に正しいかは不問)。
詳しくは、本ブログの独立したカテゴリー「小笠原氏史跡の旅」に紹介してある。

小笠原氏の元は清和源氏で、その清和源氏は、清和天皇の第六子貞純(さだずみ)親王から始まる(平安時代)。

貞純親王は、叔父で武門の達人である源能有(よしあり)から糾方(武芸)を的伝され、武門を相続したという。
これによって清和源氏が武門の家元とされる。
そしてその子の経基に的伝され(基本は一子相伝)、経基は鎮守府将軍となり、将門の乱を平定した。
そして満仲※、頼信と代々糾方が的伝される。

※源氏の系図によると、満仲の子、頼信の弟に、「美女丸」という、とても気になる名の人物がいる。この美女丸、子どもの時に叡山に入り、叡山第一の暴悪児の名をはせたという。

さらに頼義、八幡太郎義家と続くと、源氏は「武家の棟梁」としてのピークを迎える。
また義家は、当代きってのインテリ・大江家に伝わる兵法書『訓閲集』(きんえつしゅう)※を与えられ、源氏は兵法の奥義も手に入れた。

※私も大枚はたいてこの古書を入手した。日本の“兵法”は陰陽道などが混入していて、孫子の兵法のような合理性が失われていたことがわかった。訓閲集を後生大事にしていた小笠原氏が、戦国時代に孫子の兵法を旗印にした武田信玄に破れて信濃の地を追われたのもむべなるかな。こういう迷信的兵法は天下人秀吉に一笑に付せられ、江戸時代は『甲陽軍鑑』の武田流など実績のある兵法とって代わられた。

義家から弟の弓馬の達人として名高い新羅三郎義光に糾方は的伝され、さらに義清清光と的伝され、このころ甲斐に移住し、武田氏の祖でもある甲斐源氏となる。
甲斐は馬の産地で、これによって甲斐源氏は騎馬を得意とする(現在の流鏑馬の家元は小笠原家と武田家)

清光の三男遠光(加賀美次郎)が甲斐の小笠原荘(南アルプス市)に住み、その小笠原で生まれ育った長清が、高倉天皇より小笠原姓を賜った(初代小笠原氏)。
長清は、同じ源氏の頼朝に味方して源平の合戦を戦い、頼朝亡き後の承久の乱の時は東山道軍を率いて上皇方と戦った。

その6代後の貞宗は、足利尊氏とともに、鎌倉北条軍と戦い、尊氏の室町幕府から信濃守護に任ぜられた。
この貞宗が従来の糾方(弓馬の法)に礼法を加えたという。
すなわち、小笠原流礼法は、小笠原7代目の貞宗によって、南北朝期に成立した(私は、小笠原流礼法誕生の年を建武二年(1335年)としている→根拠は、小笠原氏史跡の旅」の「年譜」)

2. 小笠原流礼法の構成要素

ここに至ってやっと小笠原流礼法の話題に移れる。
貞宗が制定したという礼法は、もちろん彼一人で0から創作したものではないはず。
つまり元になるものがあったはず。
それは何か、この礼法を研究してきた者として、以下の3つを指摘できる。

2.1.故実儀礼

武家が政権を取ってから政(まつりごと)をするようになると、それなりの儀礼が必要になる。
その典拠の第一は、従来の朝廷儀礼である。

その朝廷儀礼は、唐王朝の儀礼を範としており、それはさらに漢王朝に由来するので、結局は儒教の儀礼が根拠となる。
それに加えて、頼朝以来の武家の慣習(古いしきたり=故実)も武家固有の儀礼の根拠となる。

日本の史家は、武家礼法のこの部分だけを見て、武家礼法を「武家故実」と(同一視)している。
それが狭過ぎる理解であることは、以下に示す他の構成要素でわかる。

2.2.   禅清規

武家礼法が単なる故実儀礼でしかないなら、小笠原流礼法は鎌倉時代に誕生しておかしくなかった。
なぜもっと後の貞宗の時に礼法が生まれたのか、その理由がここにある。

若かりし貞宗が鎌倉に居たとき(各国の守護は任国ではなく首都に住む)、元(げん)の国から来日した清拙正澄(せいせつしょうちょう)という禅僧と出会った。
清拙正澄は、すでに日本に伝わっていた禅(臨済禅)に、清規(しんぎ:僧院での作法)を新たに伝えるべく招聘され、まず鎌倉建長寺に入り、そこで貞宗と出会った。
両者には摩利支天を信仰する共通点があった。

清拙正澄は、日本に正統な清規※を伝え(大艦清規)、その功によって大鑑禅師という師号を与えられた。
その禅師に私淑した貞宗は、故郷の信州飯田の地に開善寺を開基し、大鑑禅師を開山に迎えた。
そして、代々開善寺を菩提寺とすることを遺言した。

※もっとも国内最初の清規に相当する書は、鎌倉時代(13世紀)に曹洞宗を開いた道元が著している。その中の『赴粥飯法』は我が国最初の食事作法書だ。道元によれば、禅の作法の典拠はインド由来の教典『大比丘三千威儀』(大蔵経所収)という。

大鑑禅師と貞宗の親交が真実であった証拠は、京都建仁寺の塔頭である禅居庵、ここは摩利支天を本尊とし、民間信仰の場ともなっているのだが、その禅居庵の墓地に大鑑禅師の墓があり、その横に貞宗の立派な五輪塔が並んでいるのだ。
亡くなった順は大鑑禅師→貞宗の順なので、貞宗が禅師を慕う気持ちがわかる。

清規は、行住坐臥が修行である禅僧にとって、その緊張感を維持するための所作の法であるから、儀式のための故実ではなく、日常生活の所作(洗顔や入浴など)の法である。
ただ、僧院での所作がそのままの形で武家礼法として適用できるだろうか。

清規の作法がそのままの形に近い形で、外にひろまった1つが、客をもてなすための「茶礼」で、これが芸道として独立していく”茶の湯”となる。
他には、食事作法も適用されており、たとえばご飯の「お代わり」を礼法では「再進」というのだが、この用語は清規から来ている。

貞宗は、日常の起居進退(姿勢と動作)を作法化するという思想とその構造を清規から学んだようだ。
しかし、具体的な所作は、武家と僧とではその内容が異なるので、そのまま応用はできない。
この部分を反映させたのは、ほかでもない武士が常日頃鍛えている武芸である。

2.3. 武芸

武士は戦場で功を上げることを理想とし、死ぬのも戦場においてこそが誉れである。
なので、平時は、戦時の準備のためであり、いつなりとも戦場に馳せ参じる状態を保っておくのが平時の心得である。
これを格闘の所作に置き換えれば、いつでも攻撃と防御に即応できる“構え”の状態である。
平時とは戦時への構えである。

糾方では、戦時に使うのが武芸で、平時に使うのが礼法である。
ゆえに礼法は構えである。
だたし平時に必要なのは、攻撃ではなく防御の構えであり、平時に攻撃に対応するのは、他者に対する礼(敬)の発現である。

なので、武芸の所作の原理が、平時に活かされる。
武芸を知らずして、武家礼法を語れない。
単なる儀式の武家故実が武家礼法の本質でないことがここでも明らかである。

逆にいえば武家礼法の所作の本質は、朝廷由来の儀礼ではなく、命のやりとりにかかわる武術に由来する。
したがって形式性ではなく、実効性・身体合理性が備わっている。
神話的意味づけに満ちた儀式ではなく、重力と身体構造が根拠の所作であるため、時代や文化を越えて、現代人にも有効である。
これが武家礼法のすごいところだ。
現代人に、小笠原流礼法を伝え、身につける価値をもっていると確信するのも、これが理由だ。

構えの姿勢
構えとしての所作は、力まずかつ弛緩しない。
力みも弛緩も瞬時に変化できない、すなわち「居つく(停滞する)」状態だからである。

最適な緊張感の維持である”構え”の基本は、関節を伸しきらず、わずかに曲げておく(意識して曲げるのではない)。
関節を伸しきった姿勢は、それ以上動かない姿勢であり、隙(すき)に満ちている。
当然、隙を示さないことが武術の基本である。

小笠原流礼法の基本姿勢は、明治以降の西洋軍隊式の(全身の関節を伸しきった)「気をつけ」姿勢ではない。
両足を肩幅に開き、進行方向に向け(外側に向けず)、両膝を軽く曲げて腰を落として、股関節も軽くゆるめる。
こうすると腰から上の上体は自然に垂直になる(胸を張らない)。
武士は袴姿なので、股関節や膝が軽く曲がっていても、それが外からは曲がっているようには見えず、見苦しくない。
肘も軽く曲げて、両腕を真横でも真正面でもない自然な位置に下げ、両手を両腿の上に置く。
両手の親指以外の四指の第三関節を軽く曲げ、手の甲を低い山形にして、親指はその側面に添える。
唯一意識しているのは両手の四指で、互いの指の間が開かず閉じているよう保つ。

粗相の回避
戦場に馳せ参じるべき武士が、戦さの前に自宅で転倒して怪我をすることほど、みっともないことはない。
それゆえ、在宅での武士の所作は安全(慎重さ)を最優先する。
武家礼法は、表敬以上に粗相(そそう:失敗)を避けることが最優先されるのだ。

つまづいたり滑ったりしない歩きを心懸け、身体を捻るなどの関節に負荷の高い動作をせず、持っている物を落とさず、そのための歩き方、座り方、立ち方、方向転換のし方、物の持ち方などを追究して作法化された(現代の礼法教室で、これらが実技指導される)。

安全を基準とした動作合理性の追究が武家礼法の実際なのだ。
なので武家礼法を身につければ、日常の安全性が高まる。

武家礼法を、時代遅れの形式的儀式だと勘違いしている人たちが日本史の専門家の間にもいるが、それは「作法とは何か」ということに対する通俗的思い込みから来ている。
専門家なのに作法=冠婚葬祭(儀式)だと思い込んでいる。
中世以降の日本人の教養書であった、四書五経(礼記が含まれる)を読んでいないのか。

作法を紀元前の昔から定義している『礼記』(曲礼上)によれば、礼とは「宜(よろ)しきに従う」ものである。
これを現代風に言い換えれば、作法=日常の所作の最適性の追究なのだ。

そして武家礼法を身につけた武士こそ、戦時・平時を問わず、「士」(サムライ)の道に励む在り方を実現する。

この「士」から「兵」(武力)の要素を除外した武士道、すなわち平時の糾方=武家礼法こそ、廃刀令以降の現代人が身につけられる”武士道(士道)”だと思う。

そう、武家礼法は、現代の武士道として存在できる。

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